|
カテゴリ:日本を思う/日本にいる人々を思う
【11月15日・火曜日】 カナダに長らくお住まいの佐藤紀子さんから、私の住所を確認したいとお尋ねのメールが来て、このほど第二冊目の歌集「カナダの桜」を出版されたとのこと、私にも送ってくださると言うので、楽しみに待っていたら、ちょうど私がアテンドに出る前日の8日午後、早々と届いたのだった。 紀子さんは年に何度か夫君と日本に帰ることがあり、この本も出版社が「柊書房」、神田神保町という懐かしい住所から送られて来たのだった。私が都内の高校を卒業して18歳で勤めに出た時、最初の職場も神保町だった。 私の方は、と言えばアパルトマンをまさに出るところだったので、すぐ4階の家まで封筒を持って引き返し、猫に爪を立てられないよう、寝室に隠して鍵をかけ、大急ぎで待って貰ったタクシーに飛び乗った。 その日は夜10時過ぎの帰宅となり、猫達に餌をやったり自分の夕食を拵えたりで、仕事が終わってから改めて読ませて貰うつもりで、封を切り、表紙を開くと、見返しに挟まれた謹呈の付箋と共に、おととし2014年の12月、私が父の3回忌のために日本に行った折り、池袋でお会いした時の一コマを、お見事な筆で和紙にしたためて下さった一首が貼ってあり、思わずその夜の事を思い出してジンとしてしまった。 「カナダの桜」何気ない日常、家族のこと、英語で会話する孫のこと・・・ 2年続けてお会い出来たことは、本当に嬉しかったです。 白いカバーを外すとピンク色の絹布で装丁された美しい本が現れ、紀子さんがカナダの暮らしの中で綴った、日々の暮らしが偲ばれる労作437首が収められている。 私も短歌には強く惹かれるものがあって、それは小学生の頃から万葉集を読んだりしたせいもあるのだろうが、高校生くらいまでは武蔵野の光景をたくさんノートに書きつけて、雑誌や新聞に応募しようと言う気もなく、只書いているだけだった。 そのうちに何度も引っ越しを重ねたわが家、引っ越しの度に家に居合わせなかったため、ノートなどは捨てられてしまってだんだんやる気をなくし、社会人になったらやたらに忙しくなっていつしか短歌と縁が切れてしまった。 紀子さんと知り合ったのは、2002年の後半あるいはもっとあとから。当時の、写真も何もないホームページの日記欄に、ときどきコメントして頂くようになってからである。 しかし、ここでは説明しきれない長い長い私の思春期に遡る頃に端を発する。紀子さんの高校時代の同期生が、私にとっては中学生時代の2期先輩の人達で、50年もしてからその先輩達に巡り合えたお陰で、紀子さんをご紹介頂いたのだった。 お住まいがカナダでは、そう簡単にお会い出来ない、もしかしたら一生ご対面はないかも、と思い込んでいたのだが、2013年に父の1周忌で日本に行っていた私に、お会いしましょう、と声をかけてくれたのが紀子さん、それも、紀子さんと私の先輩達が年に何度か催している料理教室においで下さい、と誘って頂いたのだった。 そのときの日記 2013年12月13日 先輩達の料理教室 3日間のアテンドが終わった直後は、やっぱり足腰に影響が出て、紀子さんの歌集を一気読み出来ず、やっと読み終わったのが15日の夜。一首ごとに思い浮かぶ画面を模索しながらなので、意外に時間がかかったのだった。 ところが私もキュタヒヤのストゥク・ウスタの博物館開館式と、ウスタの6回忌の法事に招待されたので、出かけるまでに済ませておかなくてはいけない用事が山のようにあり、税金を払いに行ったり、娘の携帯がプリペイドなのでいつも気をつけて補てんしておいたのに、6月以降の3ヵ月には余りに色々事件が起こり、忘れてしまったのだ。 イスタンブールというのは、もともと坂やら階段などで出来ている町なので非常に歩きにくい。デコボコのブロック舗装のあちこちが壊れている1400万人都市だから、歩きで用事を足して歩くのは容易ではない。でも、それも2日に渡ってやっと済ませた。 ※※※※ なかなか紀子さんへのお便りが書けないうちにもうキュタヒヤへ旅立つ日になってしまい、先にやっとブログでこの素敵な歌集のことを書いておきたいと、慌てて書いています。 2013年の記事の中で、間違いが一つあり、紀子さんの中学校は別だったそうですが、そのときは中学も一緒だと思い込んでいました。謹んで訂正いたします。 紀子さん、素敵な歌集をありがとうございました。 カナダの桜 柊書房 03-3291-6548 http://www.hiiragi-shobo.co.jp/ 佐藤紀子 歌集 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[日本を思う/日本にいる人々を思う] カテゴリの最新記事
|