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madamkaseのトルコ行進曲

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 marnon1104@ お久し振りです (。≧ω≦)ノ!! kaseさんのお誕生日だったのですね。 お元…
 marnon1104@ Re:トルコでシュウマイはいかがですか?(07/08) kaseさん、こんにちは(*'▽')♪ …
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 madamkase@ Re:渡航記念日(03/16) marnon1104さん、こんにちわ。 3月に書い…
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2017年01月23日
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【1月23日・月曜日】


 話はまず、4年前にさかのぼる。

 2013年1月、私は前年秋から入院生活の長くなった88歳の父の見舞いに行くつもりで、数ヵ月も前からキャンペーンの格安航空券を手に入れて、1月11日の出発を心待ちにしていたが、私の到着を待たずして父はなんと、1日早く、10日の朝、鬼籍に入ってしまったのだった。

 私の日本滞在期間は10日間、昨今の日本では市区町村の斎場は常に満杯で、火葬場の焼却炉の絶対数が足りず、父の葬儀も6日後の16日となった。私は予定通り11日の真夜中にイスタンブールを発ち、その夜成田空港に降り立った。娘V子が車で迎えに来てくれていた。

 その日は遅くなってしまったので、翌12日、父の息子(私にとっては義理の弟)夫婦も待っているという、さいたま市大宮区の家に母を訪ねて、お悔やみに行き、花に囲まれて和室に眠る父との無言の対面を果たしたのだった。13日にもまた母を訪ねて話相手を務め、14日にはV子とまた訪問する約束をした。

 ところがその年は、1月14日の成人の日に、朝9時にはまだ降りだしたばかりで、大したことにはなるまいと思ったのが大間違い、娘の運転でさいたま市大宮の父の家に向かったものの、ものすごい速さで雪が積もり始めた。関東地方は記録的な大雪に見舞われ、国道16号はたちまち白い帯となってしまった。

 県境の江戸川の橋のたもとまで普段、15分で行ける距離を1時間半かかって来たが、そこから先はもっと遠いので諦めて引きかえしたのだった。

 戻りも1時間半かかってやっと野田市内に着き、スーパーで2~3日分の兵糧を買いこみ、娘と息子の家に戻ってきたら積もった雪で車庫に入れられなくなってしまっていた。雪は翌日朝には止んだが、父の通夜の15日にはまだ道路わきに雪が壁のようにがたくさん残っていたので、浦和の斎場には野田市駅まで歩き、東武線と大宮から京浜東北線に乗り替えて、やっと行ったのだった。

ooyuki  
朝9時に家を出て父の家に向かったものの、スノータイヤでもなく国道16号が
危険なので途中で引き返してきたのが3時間後。既に家の車庫に入れられません。


 16日に葬儀を終えた直後の17日早朝、私は娘に送られ、羽田から那覇、那覇から宮古島へと国内線を乗り継いで、友人哲子さんの夫君が1月2日に亡くなり、哲子さんの郷里、沖縄県の宮古島で葬儀を済ませたばかりのところにお悔やみに出かけたのだった。
 
 哲子さんにお世話になって、宮古島のあちこちにドライブして見せて貰い、生涯見ることもなく終わるかと思っていた沖縄の、やや荒れ模様ではあったが、澄んだ海やサンゴ礁なども見ることが出来た。珍しいものも沢山ご馳走になり、昨日のことのように目に浮かぶ。

Miyakojima  
宮古島の灯台に連れて行って貰いました。美しい海の見える展望台で

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サンゴがたくさん浜に打ち上げられていて、宮古島の思い出に拾ってきました。



 そして1月18日の夕方宮古を発ち、夜中に羽田に着き、娘と一緒に職場の同僚の青年が迎えに来てくれて帰宅したのが午前2時過ぎ。そして最後の一日を慌ただしく実家の墓参や買い物などで過ごし、20日の夜、成田を出て、21日夕方イスタンブールに戻って来たのだった。


 一方、チュクルジュマのアパルトマンでは、ちょうどその頃、私の家の一階上、5階の住人ヌレッティンさんが、幽明の境をさまよっていたらしく、23日の夜、家族の看護も空しく息を引き取ったのだそうだ。

 亡くなる2年ほど前から2~3度入退院を繰り返していたが、最期の1年は自宅療養をしていたので、何度か見舞いに行ったこともある。

 死去の報は、あのカプジュが私には知らせるのを忘れたので、私は24日には外出してしまっており、ヌレッティンさんの葬儀には参列出来なかった。しかし家に戻ってから知り、お悔やみを述べに顔を出した。

 息子のビュレントさんは、危篤の報を受けてすぐに亡くなる1日前カナダを出発、葬儀の日の24日午後にトプカプ地区の墓地に埋葬される寸前、空港から直接墓地に駆け付けて、最後の土を被せる役目(息子または男兄弟など)にやっと間に合ったのだそうだ。


   ****************


 さて、それから時は流れて4年が過ぎた。仏教では4回忌というのはやらないが、イスラーム教では毎年、Vuslat gunu(ヴシュラット・ギュニュ=命日・再会の日)という、法事を行うのが常である。

 そこに参列するつもりで、早目に昼食を済ませ、2時15分前に、上の階の11号室を訪問すると、親戚の人々数人と、お経(クルアーン)を読む導師2人が既に来ていて、僧侶達は振る舞われた食事を取っているところだった。

 2時から読経が始まり、ほぼ1時間、切々と哀調のこもった節回しで、あるいは高く、あるいは低く、導師達は交替でクルアーンの一節を感動的に読み上げた。

 このチュクルジュマの家に来てから18年目に入る。当時、日本から連れてきたシベリアン・ハスキーのビクターを夕方の散歩に連れて坂道を下りて行くと、トプハーネの駅から坂を上ってくる、仕事帰りのヌレッティンさんと時々出会ったものだった。

 私も1999年にそれまでの、海の見えるジハンギルの家から移り住んで2週間後の8月17日に、イスタンブール・マルマラ地方を襲った巨大地震に遭遇、不安ではあったが、ビクターが微動だにせず、勉強机の下に座って「お母さん、大丈夫だよ」と言うかのようにじっと私を見つめているので、安心したのだった。

 アパルトマンが密集しているこのあたりでは、地形も岩盤の上であり、死者も出なかったが、海沿いの新しく開発された地域では、地震対策法も建築基準法も守られていないにわか作りのビルが、将棋倒しのようにバタバタと折り畳まれて崩壊し、公称16,800人もの犠牲者を出したと言われている。当時の、違法建築をやすやすと許可する行政の不正が暴かれた。

 4年前には、ヌレッティンさんの死去も葬儀のことも知らずにいたため参列出来なかったが、その1週間後の1月31日に、隣のチュクルジュマ・ジャーミイで行われた初七日の法要には、当時わが家に滞在していた万里子さんも参列してくれた。

 私は日本の七々忌に当たる四十日忌にも、その後の年一度の命日にはヌレッティンさんの自宅で、読経に呼ばれ、未亡人のハッヴァさんや家族親戚一同と一緒に必ずお付き合いしてきたのだった。

 トルコに来て以来、親戚付き合いのような家族も多いので、そうすることによって日本との文化や風習の共通点や、人々の心情などをだいぶ学んだように思う。

 僧侶の2人が帰ったあと、家人も食事を取って、私にも勧めてくれたが、法事に行く直前に食べたばかりだったので、丁寧に断ってチャイだけ頂き、久しぶりにゆっくりと歓談に加わった。

 すると女性陣が主食のラフマジュンや、野菜サラダ、ヘルヴァ(家庭で作るセモリナ粉の甘味)、アイランなどをビニールの買い物袋に入れて、私の帰りがけに持たせてくれたのだった。

 何とも、日本での昔の近所付き合いと似ているところがあって、やっぱりトルコはいいなあ、と改めて思った。







   かに座さそり座いて座
かに座さそり座いて座



madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)




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Last updated  2017年01月27日 12時27分12秒
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