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カテゴリ:これでいいのか、トルコ
【5月2日・火曜日】 ビル・マユス(5月1日)と言えばトルコでは、長年に渡りタキシム広場やその周辺のイスティクラール通りや、スラセルビレル通りやそこを下ったジハンギルなどの街々の商店街のシャッターを壊す、ガラスを割るなど、労働者ではなく、騒擾事件を起こす目的で送りこまれたアジテーターなどが暴徒化するのが年中行事となっていた。 広場から直線距離1キロにも満たないわが家の辺りには、警察官の放つ催涙ガス弾を食らったデモの参加者達が、目を真っ赤にしてそれこそ泣きながら坂を駆け下りて逃げてきたものだった。 2009年の5月1日は、格別な日であった。その日を遡る31年前から、メーデーにタキシム広場に集まった労働者達が、独立記念群像に花輪を捧げるのが禁止されていたのだが、当時のイスタンブール県知事、ムアンメル・ギュレル氏が、整然と静かに秩序を守って行動することを条件に、メーデーを広場で祝うことを許可したのだった。 それではいったい、どういう経緯からタキシム広場でメーデーを祝えなくなったのだろうか。 その年のメーデーについて 31年後のビル・マユス(5月1日) それがきっかけで、2009年以降、2010,2011,2012年までは、周辺地域で多少の騒動はあったものの、タキシム広場でのおおむね静かなメーデーがテレビ中継されてきた。 しかし、2013年の3月、4月頃から、タキシム広場に面した緑地帯、ゲジ公園の樹木が市役所によって伐採され始まったため、NPO団体がウォッチングを続けた結果、ゲジ公園に巨大なショッピング・センターを建設するため、公園の木々を伐採する計画が実行に移されたことが判明、反対して座りこみを始めた市民団体に、政府は高圧放水銃車TOMAと、ビベルガス(催涙ガス弾)で対抗、県警の機動隊が容赦なくデモの参加者を撃退し、大騒動となったため、世界中から取材陣が駆け付けてきた。 ゲジ公園の騒動の時、日本のジャーナリストに通訳として頼まれ、取材に参加していました。 たいそうな混雑で、鉄砲玉のように飛び出して雑踏に消えてしまう記者とははぐれっぱなし。 何度か催涙弾を投擲する警官に追いかけられて散々でした。怪我をしないうち辞退しました。 今年の5月1日に、テレビ画面で見たタキシム広場他の広場の様子 2013年のこの騒ぎは全国に飛び火、国民と政府の間の断絶は決定的になった。それから4年、タキシム広場は一般車両を広場の地下に掘った地下道を通すようにし、ゲジ公園のショッピング・センター建設の話は今のところなりを潜めているが、広場の西側に巨大ジャーミイを建設する話が起こって、今年念頭に杭打ち式も行われ、工事は順調に進んでいる様子である。 しかし、今年のビル・マユス(5月1日)のタキシム広場は、またまたメーデーを祝いたい人々には閉ざされ、通り抜けるだけでも許可されなかった。これでもう、2013年以来、5回も一般市民の立ち入りは禁止となっている。2023年10月29日はアタテュルクの共和国建設100周年に当たるのだが、その時、市民や住民は皆でタキシム広場に繰り出してお祝い出来るのかしら、ほんとうに? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年05月07日 21時36分36秒
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