|
カテゴリ:イスタンブールで人と会う
【6月25日・日曜日】 先週18日(日)の朝イスタンブールに到着したばかりで、3つの段ボール箱のうち1つが紛失、というハプニングはあったものの、一旦、野菜や生ものなど賞味期限の早く来るものを冷蔵庫に収めるために、V子はT子さんと一緒に家にやってきた。その間に幸い紛失した荷物が見つかったとの知らせもあり、朝9時過ぎには2人が次のフライトのため再び空港に行くので、ジハンギル・タクシーを呼んだ。 私も一緒に乗って行き、消えた荷物の中のV子の着替え以外は台所用品と乾き物ばかり入っていたのでこれを預かり、タクシー代の往復分をV子が払っておいてくれたので、空港の外の空き地で待ってくれていた昔馴染みの運転手、アリ・シャーヒンカヤさんと共に家に戻ってきた。 もう5~6年前から、空港への海岸通りでは、大規模な湾岸工事が施行されていたが、昨年暮れの、ボスポラス海峡にかかる第三の橋「ヤウス・スルタン・セリム大橋」とほぼ同じ頃に開通した、アヴラスィヤ(ユーラシア)・トンネルは、通行料はやや高いと言われているが(乗用車・タクシーで18,5リラ程度)、第一、第二大橋の渋滞で橋を渡りきるまでに2時間もかかることを考えると、急ぎの人にはたいそう便利になった。 イエニカプ・フェリーボート乗り場も周辺がすっかり片付き、工事期間中のトタン板に張り巡らされた迷路のような道を思うと、海の眺めも戻ってきてすっきりしているし、トルコもやっぱり開発途上国ではなく、先進国と肩を並べようとしているのを感じるが、実は観光事業の落ち込みで、経済はどんどん下降線をたどっており、バイラムと言っても昔のように国民を小躍りさせるような希望は見当たらない、というのが本音である。 25日はバイラムの初日だが、V子達はその日の午後、イスタンブールに戻ってくる。それまでの間に、ほぼ1週間の余裕があるので、サロンと寝室の掃除を予定していたが、月曜日から急に目も開いていない、産み落とされたばかりの子猫2匹の世話を引き受けてしまい、自分の仕事の予定に大きな誤算が生じてしまった。 放っておいたら死んでしまう、と思い、いや、生まれたばかりに母猫の初乳を付けて貰えなかった猫は、どう手を尽くしてやっても所詮死ぬときは死んでしまうのだ、ということに思い至らず、自分が世話してやればなんとかなる、と思うことすら尊大、不遜の極みかもしれない。神様がこの猫に定めた運命が変えられるわけでもないのに。 結局、タローが可愛かった分、悲しみは深く、疲労困憊状態もまったく癒えないうちにもう、娘達はジョージアの名所を見て回り、22日にはまた空路トルコに戻って地中海沿いのカシュに泊まり、翌朝定期船で沖合のメイス島へ日帰りツアーで、ギリシャ旅行も楽しめたと言う。 その夜はアンタルヤに一泊、25日昼時の国内線で2人はイスタンブールに戻った。V子の場合、職場のトルコ人友達にいつも段ボール一杯のシミット(浮輪型のゴマパン)や、エリッキという青いスモモ、ペイニール(チーズ)、トルコ料理用のバハラット(香辛料)、ビールのおつまみになるクルミ、レヴレビィーやピーナッツなどの豆類、ヒマワリの種などを山のように買って帰るので、ジハンギルのスーパーでT子さんと買い物をし、夜は見晴らしのいいレストランに行き3人で別れの晩餐を、という予定だそうだ。 6時から2時間半ほど、イスティクラール通りのイスタンブル360という、絶景レストランにV子が予約を入れて、私とは現地集合ということにし、スーパーで買った土産物のビニール袋を両手に4つも提げて一度家に置きに来た彼女は、T子さんを迎えに一足先に家を出た。 私はイスティクラール通りの後ろ側に当たる、トゥルナジュバシュ・ソカウ(ソカク=ジャッデより細い裏通り、わき道)から、ガラタサライ広場に出た。するとさすがにバイラムで、市民がたくさんイスティクラール通りに繰り出していたが、わき道から車がイスティクラール通りを通り抜けられないようにしてあり、脇道の角に警察官が大勢警備のために立ち番をしており、荷物をたくさん持っている人などには身体検査をしていた。 V子達は、タキシム広場のそばにあるホテルからすぐわきの道を通りぬけようとしたら、物々しい警察官の群れがいるので驚いたらしい。もちろん、2013年の5月に発生したゲジ公園騒動を想わせる装甲車「TOMA」も要所要所に配備されているので、私などはすっかり慣れっこになっているのかもしれないが、やはり、これほど夥しい警官の数を普段見たこともない日本からの客は、トルコをよく知るV子ですら、不気味なものを感じてしまったようである。 ガラタサライ広場のすぐそばにあるムスル・アパルトマンの屋上。 レストランの右隣りがイタリアのサン・アントワン教会。鐘楼の向こうに金角湾の入り口が見えます。 少しズームして見てみると、世界遺産イスタンブール歴史地区のトプカプ宮殿、 アヤ・イリーニ、アヤソフィア博物館、そしてブルーモスクなどが見えます。 景色が素晴らしいのは頷けるが、たまたまそそっかしいのか、新米なのか、ガルソンがあまり店内でのサービスに関する教育や訓練を受けていないな、と思うことばかり。 そのレストランのシェフの料理姿勢の傾向だとすれば仕方ないが、日本食の素材を生かした作り方とは正反対で、大きな牛のピルゾラ(スペアリブ)肉を固まりごとオーブンで焼き、濃いソースで味はいいのだが、肉はもう、これ以上柔らかくならないのかな。 ビールはどんな種類があるか、ガルソンに聞くと、たちどころに6~7種類をあげた。 エフェスはないと言うので、トゥボルグを所望すると、カールなんとかしかないとのこと。 じゃあ、なんでそれしかない、と最初から言わないのだ、しかもとてもぬる~いのが出た。 パンと薄焼きのゴマパンが出ました。これはまあ、そこそこでした。 春巻き。ちょっと揚がり過ぎで、皮がばりんばりん。上あごに突き刺さりそう。 キプロスの焼くチーズとトマトのカナッペ。まあ、これは軽くていいですが・・・ ナスのカルヌ・ヤルーク。これはまずまず美味しく出来ていました。 スペアリブのロースト、私が歳をとったせい? この肉が固くて食べるのが大変でした。 石鯛の身の中に、ナッツやチーズや色々混ぜて、葡萄の葉で巻いたムニエル!!! もう一つのメインディッシュは石鯛とその他もろもろを豆や野菜を混ぜて葡萄の葉でくるんだ蒸し焼き風で、何やら味の基礎的コンセプトがよく分からない。娘に私の分の大半を引き受けて貰ったが、やっぱり彼女にも不味かったらしく残してしまった。 8時半を過ぎたのでお開きにしたが、イスティクラール通りやタキシム広場をそのまま歩くことに、2人とも不安を感じると言うので、途中から横道に入り、イスティクラール通り寄り、やや低い地点を通り、スラセルビレル通りに出て、タキシム広場を目指して坂を上って行った。 わき道から車は通行止め、大人数や大荷物の人は身体検査されています。 T子さんのスーツケース2個はあいにく1つの方のベルトが壊れてしまっていたとのことなので、V子がロープを買いに出て行った。10時半にジハンギル・タクシーの車を呼んであり、ロープでしっかり縛ったキャリアーと、もともとベルト不要のやや小型のキャリアーを持ったT子さんと、私達も抱き合って別れを告げ、手を振って別れた。 猫のいないところでゆっくりお喋りでもしよう、と言っていたのに、娘の方もハードスケジュールだったせいか、クィーンサイズのベッドに転がって、ジョージアやギリシャ旅行の写真を見せてくれていたが、たいして話もしないうちにV子自身が早くも沈没してしまった。 ところがあとから寝た私の方が熟睡してしまったようで、時々目が覚めると、閉めた筈の部屋のカーテンが開いているのに気付いた。でもそのときは娘が寝ているのでまた私も寝てしまうのだが、真夜中の1時2時に、タキシム広場でデモ行進や歌声集会みたいなものが始まり、私は白河夜船でV子が目覚め、ホテルからは目と鼻の先なので不安に感じ、ミニバーのビールを飲みながらバルコニーに顔を出して、タキシム広場の様子を伺っていたのだそうである。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年07月03日 15時37分37秒
コメント(0) | コメントを書く
[イスタンブールで人と会う] カテゴリの最新記事
|