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カテゴリ:イスタンブールで人と会う
【6月27日・火曜日】 今年もトルコ旅行に来て、友人とあちこち回った後、日本に帰る前のたった1泊2日、V子が風のように家に来て風のように去って行ったが、その慌ただしいバイラムの2日間が終わり、いよいよ今日がバイラム最後の日である。 だいたい私のバイラムは、普段出来ない、というか、やれない、あるいはやらない掃除をして、それも中途半端に出来上がらないまま、またどうしようもないテンポの日常生活に戻る、というのがほとんどだった。 3日続きで晴天だし、バイラムにはメフテル・コンサートに行きたい、と前夜から考えていたので、まずはいつものように早く起きて、息子の贈り物の新しいパソコンを開いた。娘に教わった手順で、なんとかgmailのページを開いた。息子にこのパソコンから礼状を送るつもりで操作を忘れないうちに試してみたかったのだ。 gmailは画面の右端にメールを書き込む窓が10センチ四方くらいに開き、そこにあて名と本文を書き込んで行くのだが、ようやくメールのアカウントに到達出来て、ああ、よかった、これで息子に礼状を書ける、と思っているうちにこの窓がくるくる大きさが変わり、一、二度あれっ、字が大きくなったな、と思ったら、今度はだんだん小さくなってしまい、最後は窓が切手くらいの大きさに縮み、今書いたものなど全然読めなくなった。 やっと「送信」だと思われる、これまた極小の小さな青い点をクリックしたが、画面はそれで消えてしまったため、果たして日本に届いたのかどうかわからない。仕方なく新パソコンはいったん閉じ、現在のNEC製品の使いなれたパソコンをまた取り出した。 いつも通りの手順でネットを始めて見ると、Facebookのメッセンジャー欄に、5月初旬に婚約者エフェ君と共に、私を訪問してくれたマキコさんからの依頼が入っていた。彼女が支援しているNPO法人の一つが、トルコが受け入れたシリア難民の婦人達で組織している、とある手芸グループ。 彼女達は手製小物を作って販売し、この利益で避難民への生活支援を続けている。この指導者が日本女性なのだそうだ。彼女の活動に深く心を打たれたマキコさんは、トルコに住むようになったら、自分も率先してその活動に身を投じる覚悟でいる。 そして、彼女が私に情報を知らせてほしい、と頼んでいるのは、刺繍を簡便な方法で仕上げるための必須アイテムで、チャコぺーパーという日本製の小さな品であるが、これがイスタンブールの手芸店などで購入出来るかどうか、ということを私に調べて教えてほしい、とのこと。 私は、本日は真っ先にエミニョニュの一角にあるタフタカレの街を歩き、自分の必要な旧型の携帯電話のチャージ・ケーブルや、家事と猫のために使うビニール袋を問屋から買いたい用事もあるので、そのあと、手工芸品の問屋が軒並み並んでいるアラジャハマム通りという専門店街に行ってみるつもりで11時少し前に家を出た。 ところが、さすがにバイラムなのでどこもかしこも休み、まずはエジプシャン・バザールの大門がしっかりと閉まっており、その脇の通りは買い物客で賑わっていたが、エミニョニュの奥のタフタカレ、アラジャハマム通りも、幾つかのおもちゃ屋、菓子屋などは開いていたが、問屋街はどこもシャッターを下ろし、森閑としていた。 普段は日曜日も営業しているエジプシャン・バザールも3日間お休みです。 タフタカレの通りは食料品関連の店があるのでかなり開いていたが・・・ あっちの通りも・・・シャッター商店街 こっちの通りも・・・みんなみんなシャッター商店街 エミニョニュでは、エジプシャン・バザール前から地下道で、金角湾のほとりに出ます。 これではバイラムが明けてから出直してくるしかないと思ったが、私は幸い1軒の電気製品の店で、チャージ・ケーブルだけは手に入れて、11時過ぎにエミニョニュに着いてからずっと、1時過ぎまで歩き通しでさすがに疲れてもいたので、次なる軍事博物館へのルートに移動した。 ガラタ橋のそばの、サバサンド船の隣にあるバスターミナルに行った。そこから乗れば、軍事博物館の前を通るバスがいくらでもあるのだった。さすがにそのあたりはバイラムで繰り出した人々で賑わっていた。 ターミナルの脇にズィンダン・ハンという、オスマン朝時代からの商館があり、かつてはその入り口階のロクム・バクラヴァ、その他種々の土産物店に美保子さんが働いていたので、出先からの帰りによく寄ったものだった。 懐かしくなって、彼女はどうしているのかな、と電話をかけて見たが応答はなかった。そのあとバスに乗り、出発までの間にメフテル軍楽隊のキョスゼン(大太鼓奏者)、シェラフェッティンさんに電話してみると、昨日と今日は出演なので、今ちょうどアジア側から送迎バスで軍事博物館に向かっているのだそうだ。 昨日のうちに電話で話したのだが、バイラム初日のおとといの日曜日はコンサートも休みで、普段は休館日の月・火の2日間にバイラム・コンサートを行い、明日水曜日は、毎年行っているボスナ・ヘルセク(ボスニア・ヘルツェゴビナ)に演奏旅行に行くのだそうだ。 シェラフェッティンさんは実力ナンバーワンの堂々たるウスタ・キョスゼン(花形大太鼓奏者)であるが、2015年、2016年と不運にも、自分を始め父親、母親、奥さんと代わる代わる病魔に襲われ、入院、手術、通院、一人が治れば次は別な家族が、というように2年に渡って病院と縁が切れず、外国への演奏旅行に全く行かれなかった。 この度のボスニア行きは、2年振り以上の久々の国外遠征である。きっと今日は張り切っていいパフォーマンスを見せてくれるに違いない。エミニョニュのカメラ屋が開いていたら、デジカメのメモリーチップを買うつもりでいたのに、そこも休みだったので、以前の画像を消して使わないと写真がもう何枚も撮れない状態だった。 2時少し前に軍事博物館に到着、電話をしてみるとシェラフェッティンさんはもう博物館に着いていて、いつもお茶をする軍事博物館のカフェテリアまで来てくれると言う。そこにちょうど美保子さんから電話がかかって来た。 「さっきはメトロに乗っていたので聞こえませんでした、済みません。私は3時くらいにベシクタシュ(ヨーロッパ側の港)で買い物をするので、それが済めばあとはフリーだけど、加瀬さんはどこにいるの?」 「今ね、ちょうど軍事博物館に来たところなの。これからコンサートを見て、4時少し前に終わるからそのあと私もフリーよ。じゃあ、4時半くらいまでに軍事博物館のそばのドルムシュ乗り場からベシクタシュの船着き場に行くからそこで会わない?」 たちまちにしてデートすることになった。まもなくカフェテリアにシェラフェッティンさんが来て、奥の休憩室でアイスティーとケーキをご馳走になり、彼が舞台に出るために着替えに行くまで30分ほど、歓談することが出来た。 シェラフェッティンさんとお喋りしながらケーキを食べアイスティーを飲む。 私がシェラフェッティンさんの舞台を見るのは、3月29日に誕生日より2日遅れで、友人の由加さんと香織さんと共にメフテル・コンサートに行った時以来、ほぼ3ヵ月ぶりである。私はシェラフェッティンさんの「オルド・マルシュ(軍隊行進曲)」別名ジェッディン・デデンの演奏の時の、右手の撥の空中大回転を撮影したいと思っていた。 しかし、メモリーチップの残りポーズ数がもういくらもないので、舞台が始まる前に2分半ほどのオルド・マルシュを動画で撮影出来るようにしておかなくてはならなかった。2時半になったので、シェラフェッティンさんと別れのあいさつを交わし、彼が着替えのために一足先にカフェテリアを出た後、私は15分ほどかけて懸命に千何百枚と収まっている写真を見直し始めた。 実はこのところ、いつもこんな調子でなかなか新しいチップが買えずにいたので、昨年11月初旬以来連日撮り続けてきた写真の、大多数は何度も見て残してきたものなので、どれを消そうか、消すまいか、と決断までに何秒も考えたりしてしまい、続きはコンサート・サロンに移動してからにしようと私もカフェを出て本館に入場した。 切符売り場の職員さん達にお久しぶりですね、と言われながら会場にせっせと急いだ。廊下を飛ぶように歩いて行ったら、今日は中庭に旗持ちの兵隊さん達が大勢出ていたので、これはきっとバイラムなので58人くらいのフルメンバーで、中庭からの入場行進付きだというのが分かった。 コンサート会場の観覧席にはまだほとんど入場者がおらず、私はシェラフェッティンさんの右手のパフォーマンスがよく写せるように、舞台に向かって右側の前から2列目の右端に座り、汗をぬぐってからまたデジカメを取り出して、もう消してもいいか、と思われる写真を消し始めた。 3時、場内が暗くなり、メフテル軍楽隊を紹介する12分の映画が始まった。3時13分には場内にパッとライトが点いて、正面の壁がするすると左に動き出し、庭の向こうで軍楽隊が整列しているのが見えた。 私はかなりの写真を消したので、シェラフェッティンさんの動画も撮れる、と思っていたが、入場行進の写真も2~3枚入れておこうと望遠で行進曲に乗って動き出したメフテル軍楽隊にカメラを向けた。 ジャンジャジャジャジャン、と勇ましくメフテル軍楽隊がコンサート会場に入場します。 シェラフェッティンさんは花形大太鼓奏者、でも全曲打ちっぱなしなので重労働です。 チェヴゲンレル(コーラス隊)と、今日のチョルバジュ・バシュはハサン・フュセインさん 今日のメフテル・バシュのチェティンさん(デニズ少佐の副官) ところが、何たることか、画面に乾電池がもう残り少ないとの警告表示が出てしまったのだった。なんとか、最後に近い頃演奏されるオルド・マルシュまで持たせようと、途中では余り写さないように心がけたのに、いよいよ次はオルド・マルシュが来るな、と、モードを動画にして、本日のメフテル・バシュ、チェティン曹長の声に注意していたのに、いざ、シェラフェッティンさんにズームを合わせたら、画面中央に真っ赤な、空っぽの乾電池のアイコンが出て来て、シャッターを押した途端、シューッと画面が消えてしまった。 うっそ~~~ !! シェラフェッティンさんは、いつも以上に張り切ってオルド・マルシュの要所要所で右手を高く上げ、大きく旋回させて見せてくれたが、カメラがしぼんでしまったので、なにも写せなかったのよね。 涙、涙) 4時15分前にコンサートは終わり、私はがっかりしながらも美保子さんと会えるので気を取り直し、ハルビエのバス停のそばにあるドルムシュ乗り場に向かった。いくらも待たないうちに満席となり、ドルムシュ(満員になった)は出発した。美保子さんに電話を入れ、4時15分か20分頃にはベシクタシュの船着き場に行けそうなので、よかったら一緒に船でウスキュダルに渡って、魚でも食べて早目の夕飯にしようよ、と告げた。 美保子さんと会うのも、1月下旬に遅い新年会をエブルの美樹さんの家で開いた時以来である。市営の連絡船より小型の民営の連絡船、モトールでウスキュダルに渡った。いま彼女はウスキュダルに住んでおり、エブルの美樹さんの家も、美樹さんの家に同居している美由紀さんもみなウスキュダル住まいである。 ウスキュダルの波止場周辺はバイラム最後の日なので港も街中も人出が多く混雑していた。時刻が早いせいもあり、魚屋さんの経営するレストランはまだ空いていて、ゆっくりと魚スープから始まり、タキシム広場周辺の魚レストランからするとずっとリーズナブルなお値段で、しかも味は誠に美味しいので楽しくあれこれ食べた。 折角の美保子さんとの晩餐、しばらく休ませたので私のドジカメ(カメラが悪いのではなく、ドジは私だけど)、少しは写せるかな、と試しに美保子さんに向けて見たら、1枚だけ写せたが、それにも真っ赤な空っぽの乾電池が出て、カメラはうんともすんとも言わなくなった。 昼過ぎから余りにも以前の写真を再生しては消しながら、延々とバッテリーを使ってしまったので、肝心の時に空き容量は増えても、バッテリーが無くなり、写真が撮れなかったのである。でも、美保子さんの写真はきれいに撮れた。私と料理の写真はすべて美保子さんが写してくれたものである。 カメラを休ませたら、ちょっとだけバッテリーに力が戻り、美保子さんをパチリ! 私のカメラは再び危篤状態、美保子さんのスマホで写して貰いました。 チョルバ(スープ)がとても美味しい店です。 サルダリア(イワシの一種)の揚げものと、サーモンのウズガラ(網焼き) なかなかの豪華版、さすがバイラム最後の日の晩餐です。それに今夜は美保子さんにすべてご馳走になってしまいました。バイラム、バンザイ、美保子さん、どうもありがとう! 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