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カテゴリ:ムックきのこクラブ
海住山寺の十一面観音像 観音の来た道たどり泉川 風花の恭仁 マダラ 泉川=木津川の古名 およそ釈尊ほど御利益(ごりやく)宗教にほど遠い人物はいなかった。彼は個人の心の平安を得るためのものの考え方をとことん突き詰めただけで、それに近いものは東南アジアに伝播した上座仏教(個人の魂の救済をもっぱらとするので小乗仏教と呼ばれる)にこそ残されている。 しかし、人は生まれおちた瞬間、望むと望まないに関わらず社会の中に投げ出されている(実存哲学では、それを世界-内-存在と呼ぶ)として社会の中で、自分自身の魂の救済にのみかまけることなく衆生(他者)の救済に心骨を削ることにこそ釈尊の生き、悩んだ意義があるとして釈尊の教えの再検討、すなわち仏教の再編運動が起こった。それが大乗仏教である。 ここではじめて在家の問題が大きな課題として浮上してきた。在家礼賛の『維摩経』はそのための処方箋だった。奈良時代の傑出した仏教者のほとんどが釈尊の教えに遵奉しながらも僧侶であることにさしてこだわらなかったのは、そんな大乗の精神から出家僧は遠いものであることを知っていたからに他ならない。 ただ釈尊の教えは、どう転んでもその最も根底を成す考えは、この世界を空と観ずることにある。それを「空」論として体系化した傑物が龍樹である。オギャーと生まれてすぐ死んでも、生きながらえて小悪を重ねても大差はなく、それらは一瞬の夢幻にしかすぎないと観念することこそが基本だ。 実際、どう逆立ちしても、純粋個人として世界に向き合うとき、すべては自身の心の内に生起しているだけで、外界(他者)は無きに等しい。しかし、それを衆生という他者の存在を考慮に入れて捉えなおしてみると、そうとも言え切れないものが生じてくる。大乗仏教は、釈尊の教えを忠実に守りながら、ここで大きな矛盾を抱えることになってしまった。そこで登場したものが菩薩である。大乗の教えの大きな矛盾を菩薩によって解消しようとしたのである。しかし、以前ここでも述べたが、菩薩が仏陀になるための三阿僧祇劫という天文学的な時間(弥勒下生までの56億7千万年なんてこれに比べれば可愛い数字だ)は、最初から悟りや魂の救済なんてものがあるはずがないと種明かししたようなもので、実際、「空」という全否定の論理を超えるものは出てこようはずがないのだ。結局人はオギャーと生まれて人のために生きるなんて自分すら偽りながら(なんと偽りは人のためと書きますね)生き、遂には『変身』(カフカ)のイヌのような死を迎えるための時間つなぎの人生を送ることになる。僕が救いなんてのっけから無いと考えるのは、そのことを釈尊の死後、陸続と続いてきた仏教者たちは知り尽くしていたと知ってしまったからだ。ここから法然、親鸞の悪人正機説に至る絶対他力による魂の救済までは指呼の間である。南無阿弥陀仏、あるいは南無妙法蓮華経と唱えるだけですべて解決という、「なにがなんでも信じなさい。信あれば他は何もいらねえよ」という浄土教や日蓮の教えが、仏教の中でももっとも一神教に近づいたとされる所以は 宗教を宗教たらしめている信心ということひとつにのみ絞ったからである。皮肉なことに宗教としての仏教はここに至って完成する。 ただ、僕にはそれが不満のたねなのだ。きのこはそれを鋭く突いてくる。「信じる者は救われる!」。だったら、これまで散々宗教に騙されてきて宗教が信じられない僕らは何を根拠に生きるべきなのか?。これをきのこと出会う旅の途上にて、ああでもないこうでもないと語り合って、できればそれを信から遠ざけられてきた無名の一個人としての立場からなる表現として記録しておきたい。これがムックきのこクラブの「きのこシアター構想」だ。昨年から10年かけてムックきのこクラブで僕が追求するきのこのNEXT STAGEは以上のことに尽きる。 僕がこれまでのきのことのかかわりを決してきのこ学とは呼ばないのはこのことに深く関わっている。きのこの理科系的なアプローチはかっての人為分類学と栽培農家やきのこ食品産業の子実体形成のメカニズム究明に関わる微生物学に属するもので、きのこに限った理科系としてのきのこ学は机上の空論に過ぎない。 むしろきのこと菌類(という可視と不可視の世界を併せ持ったかぎりなく人間に近い両義的存在)を対象とする自然科学としてのきのこ学は、人文科学的な展開の中で体系化されるべきだというのが21年前にJ-FAS日本キノコ協会を設立した理由であった。それは「キ」の子、すなわち「キ」を兆す人と自然を対象とするすべての文化の流れとして大成させたいと願っている。 ムックきのこクラブの「きのこ」の基礎は龍樹の「空」観である。この世界を空と観ずることから出発しなければきのこは見えてこない。きのこが向こうから目に飛び込んでくるようになれば、しかる後に人はどう生きるかをきのこを通してみた目で表現していくのだ。このときはじめて法華経や華厳経や大乗仏典に書き継がれてきた菩薩行が視野に入ってくる。そのためには、きのこファンは、きのこは言葉であり、きのこはアートであるという到底常識的には等式で結ばれないことから再出発する必要がある。 きのこ探訪できのこと親しく接しながら、そのきのこたちを通して言葉とアート表現へ向かうあらゆる試みをこれからムックきのこクラブの皆さまはそれぞりの持ち場ではじめてほしい。これが僕のきのこの初心であり、さまざまなアート展、言語表現を重ねてきてまだ見ぬゴールでもある。それは仏教で言うところの「空」を実践的に体験し、風変りなきのこ巡礼の旅の繰り返しの中から掴み取っていくべきもので、超宗教、脱宗教の試みなのだ。僕はこの「超(=スーパー、シュール)」と言う言葉が大好きで、固定しがちな自身を流動化させていく唯一のアート(術)だと考えている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年03月01日 20時31分09秒
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