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カテゴリ:ムックきのこクラブ
惟喬親王墓あたりから眺めた真夏の昼さがりの大原の里風景 大原は都の東北(鬼門)に位置するひなびた山里である。人は誰もいやおうなく産み落とされてそれでも、しょうことなしにうだうだ齢を重ねていくと、この世の中は燦然たる光の世界と光がまったく届かない漆黒の真闇の間に無限の諧調をもって夥しい生き物がひしめいていることが理解されてくる。上昇意識の濃厚な若い時には、誰しも暗くて陰惨な世界からはできるかぎり遠く離れて生きていたいものだが、歳を加えるに従い来し方の自らの不甲斐ない人生を思うにつけ、乏しい光のもとで生きている生き物におのずと目がいくようになる。人がきのこと出会う決定的な契機というのは、どこかそんな心性が無意識裡に裏打ちされているように思える。 大原は絢爛豪華な都の喧騒とは無縁の土地で、そんな翳りゆく世界に憧れる人たちが数多く訪ねてくる。しかし、そんな人たちでさえ三千院、寂光院など光量こそ劣りはするが雅びな貴人たちの残り香のただよう隠棲地は訪ねても、めったに足を運ぶことのない場所がある。それが今回訪れた野村別れからすこし入った山際にある惟喬親王墓ともう一か所、大原の北端の古知谷にある阿弥陀寺だ。おそらくこの炎天下、徒歩で行くしかない大原の両端の地2ケ所を案内することは難しいと読んで集合前に阿弥陀寺だけは訪ねておいた。 光の乏しい世界に生きているものの象徴が鬼である。鬼(オニ)とは、隠(オン)。隠れたあるいは隠された存在のことである。スーパーきのこの本流を成す流れに鬼(キ)の子世界があるが、これは正史や光の世界から遠ざけられた人や集団のことである。樹木のあしたひのきになろうという翌檜(あすなろ)や、待っていればいつか椎の木になれまっせというマテバシイ同様に、明日に希望を託しつつ精一杯生き、自らを常に過渡期にあると自覚している人、それを僕は明日貴の子になるかもしれない奇の子、鬼の子さんたちとしてお付き合いを重ねてきた。そんな人たちがムックきのこクラブの中心メンバーとなっている。 自己愛と自己嫌悪が相半ばする人、僕のきのこ人とはそんな人たちだ。 とは言えそんな心優しい人たちでも炎天下を素性の知れない故人の墓を詣でるとなるとちょっとブーイングが聞えてきそうなので、きのこ探訪を兼ねているのがムックきのこクラブなのだ。今回はもっとおまけに温泉までコースに組み入れたので、いつもより顔を輝きが増しているように思えたが、それは僕の思い過ごしかな?!。 でも薄明域に生きていることに自覚的な人はスーパーきのこの世界が、毎月のムックきのこクラブの探訪地から陽炎のように立ち昇っていることに気づいている筈だ。 きのこはどこまで行ってもきのこ止まり、その先はない。しかし、きのこを超える想像力を身につけるためには、きのこと不即不離の関係を保ちつつきのこから脱するあえかな突破口を自ら掴み取るしかない。それが僕のクラブの探訪会のたったひとつポッキリの目的である。きのこはきのこおたくにとって躓きの石そのものであることをお忘れなく。 そのためには探訪のたびにその出会いの数々を自分自身にふさわしい方法で表現して記憶にとどめることが肝要だと考え、絶えずモーションをかけるのが僕のつとめなのであーる。日々ちょっと背伸びををこころがけることで奇の子、危の子、祈の子、飢の子、棄の子と実にさまざまな「キ」を兆す者たちが木の子を通してやがて21世紀の世界にふさわしい稀の子あるいは貴の子となっていく。このたゆまぬ努力の内に見えてくる世界こそがそれぞれの当面のピークなのだ。そしてピークをひとつとしないことで絶えず自らを過渡的存在と捉えなおすことができる。この心身のプラクティスこそが僕たちのムックきのこクラブの本領と心得てくださいませ。
阿弥陀寺の竜宮門 寺は、この山門からひとしきり登ったところにあった。
寺の手前の巨樹から手をふっているシロカイメンタケと境内
この寺を念仏道場として慶長14(1609)年、ここに開山した弾誓上人のミイラをおさめる岩窟と道中の倒木からのぞいていたウラベニガサ。
惟喬親王墓所(上)とその苔の間から出ていた小さいけれどベニナギナタタケとコウジタケの幼菌(下)。
惟喬親王墓への道はけわしく、紫蘇畑や種向日葵に励まされながら炎暑の中をおろおろ歩いた。
右、惟喬親王之墓の標石といつも元気でたのもしいきのこ娘の希歩ちゃん
建礼門院の陵墓と汗と涙を流した大原温泉。ドリンクと入湯で1000円でしたが、これは値打ものでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年08月13日 16時20分48秒
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