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カテゴリ:マダラのジャズナビ
HANK MOBLEYは、懐かしく聴かせていただいた。僕にとってジャズを知り初めたこの時代のジャズがもっともジャズらしいもので、ジャズは今と違ってマイノリティそのものの音楽だったので、ラジオでもテレビでも聴く機会も皆無に等しく、ジャズらしいものに飢えていたのでむさぼるように聴いたものだ。 しかし、それも10年余りのことで、60年代後半になると、徐々に認知されはじめ、ジャズ喫茶も方々で盛況で、ブルーノートジャズもさほどの困難なく聴けるようになった。このころになって、僕もようやくこのアルバムの中の1枚、『HANK MOBLEY AND HIS ALL STARS』(1957)を手に入れることができるまでになった。 でもその頃すでにコルトレーン、ドルフィーもブッカーリトルもスコットラファロもバタバタと鬼籍に入り、僕はジャズ的なものを求めて地球の赤道周辺の音楽・すなわち熱帯音楽に夢中になりはじめた。 そこには、ジャズが形骸化する以前のジャズそのものといった音源で満ち満ちていたので、はまってしまったのは言うまでもない。 この前ここで紹介したナタリー・コールもブルーノートに拠ったジャズメンたちも、レコーディングされ、ジャズの歴史の流れを勉強するためのものとなっていくにつれ、その精神は薄められていき、スタンダード化され、やがてちょっと小粋な大人の音楽としてBGM化されていくことになる。
もし、ジャズを自分の人生にかかわるものとして受け止めるためには、小学館の「ジャズ100」に示されているような聴き方が最低限必要だ。 しかし、こんな学習という態度からはどうしても得られないものがある。それは自分自身の心の欲求だ。これなくして、真剣に関わることなんてできやしない。そのためには、教育以前に他者にたいする愛(憎も含めた、平常心以上の特異な思い入れ)が必要なように思える。 教材として対象化され勉強する以前に、心のどこかに口を開けた何か(広義の貧困あるいはハングリー精神)がそれを求め、たちまちまみれてしまった自分に気づくことからはじまるような気がする。「縁なき衆生は度し難し(神様助けてと求めなくてはお釈迦さんだって救いようがない)」とは夢窓国師の言葉だ。 まあ、そんな特殊な出会いでなくとも、あらゆることに真剣に関わることがダサいとされる昨今の風潮の中で、この流れの果てにはどういう世界が残されているかを漠然と思い浮かべるだけでも事は足りる。 そのためには、自国語を解する能力さえあれば、さほど特殊な想像力は要らない。学校教育とはとりあえず、自国語をしっかりと身につけることに極まる。そこからすべてがはじまるのだ。 きのこを中心に、自然と生きもの全般にかかわってきて、同じく自然と生きものにかかわる教養ある人たちの多くが想像力をはばたかせることに自己規制を課しているのは見ていて痛々しい感じがしたものだ。 彼らアマチュアの多くは、アカデミー世界に受け入れられたい一心で、感動が伴う想像力や空想力を必死でそぎ落とし、科学者然とふるまおうとする。これが総合知の中で事物の関係を究める科学者と無縁であることは言うまでもない。 とりわけ「きのこ」という出口なしの生きもの世界に関わった人たちにその傾向は顕著で、「きのこ」をはじめて1年もしない間にほとんどのアマチュアが「菌類学のために」お役に立ちたいなんて言いだして自身の初心と感動を棚上げしてしまうのは実にもったいない気がしたものだ。 話が脇道に逸れたが、教育で汚染される以前の遊びの精神そのものだった「三つ子の魂」をしっかりと見据えることからはじめようではないか。それが、世界と単独で対峙し関わる最低限のスタンスだと思う。 何事であれ、真剣に関わるということは、うっとおしいことには違いない。が真剣に関わらなくては何もはじまらない。 自他ともにうとましく思われるくらい、真剣に対象に食らいついて生きるべしだ。 ということで来年もよろしく。 合掌
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最終更新日
2014年12月30日 16時39分04秒
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