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カテゴリ:きのこの文化誌・博物誌
僕は、いわゆる俗流の快楽追及主義とはいささか異なる快楽至上主義を貫いて今日まで来ましたので、真正エピキュリアンと言えそうです。キノコを知り染めてからは、マジック・マッシュルームや、ベニテングタケの幻覚キノコなんてものは、本人のそれに対する期待感がなければ、大して意味がないと思ってきました。
暗峠越えの際に楽しんだアルコール類。アルコールも良いものですが、依存してはせっかくの高揚体験も台無しです。 特に薬物使用のハイというのは不自然極まりないもので、ハイ(すなわち高揚感)の風上にも置けないと考えてきました。というのは、僕は小学生の頃から、宗教的なハイを筆頭にヨガやマラソン、そして登山によるアスレチック・ハイ、経典を読みながらのアロマ・ハイやマントラ・ハイ、アルコールやニコチンによる準薬物使用によるハイ、そしてジャズに出会ってからはミュージック・ハイなどあらゆるハイネスを独自に体験してきましたので、僕の人生は、あらゆる行為が、ハイを求めて灰になりたい一心のものであったことを薄々感じてきました。人はいずれ死んで灰になり土に還ることの自覚が、似非ハイネスを退ける力となってきたと思っています。 そして、その思いが決定的になったのが、キノコをやりはじめて最初に出会った書物、『太陽と月の結婚』(アンドルー・ワイル博士著)でした。これまでの僕の人生を後押しされたような書物で、「そうなんだ、僕は真正エピキュリアンだったんだ」と思った次第です。博士は純化されたものは精製の極である白いグラニュー糖でさえ危険だと言い、雑こそが自然なんだと教えてくれました。 生き物世界としたしみながら、純化された世界一色に染め上げたいとする意志がデジタル世界であり、生き物は超アナログ存在だと考えるにいたったのもこの考え方が根底にあります。 それからしばらく経って、同博士著の『ナチュラル・マインド』や上野圭一著の『ナチュラル・ハイ』に出会って、ますます僕の求めてきた世界が間違いではなかったことに気づかされました。 Mushroom High は、そんな人生の中でもとてもスリリングな体験でした。それはキノコを食べる必要など全くないもので、キノコと出会う楽しみとでも言うべきものです。 この4月12日のムックきのこクラブに参加した人はおそらく、あのいたるところにキノコが顔を出していたシーンに溶け込んでいって、みんな、一様にNushroom Highを体感したことと思います。 年に1,2度訪れるこうした機会に接した人は、この意識の集中による瞑想ハイに似た高揚感に満たされ「あの夢をもう一度」といった気分になるのです。 目指すキノコが視野に飛び込んできた瞬間に、目の前の世界ががらりと一変し、異次元へタイムスリップしたような感覚を味わうことによるハイネス(高揚)体験。 これには僕や私にだけ、キノコが微笑みかけているという思いに容易にすり替わり、選民意識を持つに至る人も多いのです。キノコおたくが、他の虫屋や草屋さんよりもその落し穴にはまりやすいのは、草や虫と異なり、キノコがいつでもどこでもあるとは言えないことによっています。 しかし、そんな感傷に浸っていて幸せな時代も21世紀に入って、とっくの昔に終わっています。きのこブームもそうですが、どんなブームもパイオニアの人達がNEXT STAGEに行ってしまった後でようやくはじまるのです。 そのとどめの作業がMOOK本の『きのこ』出版であり、僕達の周りのごく少数のスーパーきのこ時代の到来を予感していた人たちでした。 したがって、この地球が取り返しのつかない状態になる前に、キノコファンができるだけ早く単なるキノコ屋さん稼業を切り上げて、キノコ国際人としての自分に1日も早く近づけることが、スーパーきのこ時代を招来させてくれることになると思っています。 別にあわてて目覚めなくてもよろしいが、あっちへ行っても戻ってこなくてはならない自分に早く気がついて、自分に課せられた人生の目的を早く掴み取ることです。 「自分にしかできないこと」を、それも思考能力もまだ確かで、身体が元気で、何の自由もなく動ける間に見つけ出すこと。 僕がワイルさんや圭一さんと微妙に違うところがあるとすれば、1度きりの人生という思いを僕は決して手放したくはないという点でしょう。ですから、ハイへ至る道筋もいささか異なってきますし、ナチュラル・ハイも個人レベルの治癒や健康法以上のものを究極的には認めません。したがって決定的にあっち者となる前に生き急ぐことは僕に課せられた責務と考えています。その夢の実現にナチュラル・ハイの方法は有効だと考えています。 スーパーきのこ時代は、すべての生き物ファンに「おたく」と呼ばれてよろこんでいるようなセンチメンタルな自己愛を脇に置いて、冷厳な目で自分自身とその生き物とのかかわりを見つめ直すことにはじまります。 キノコ世界も自然科学の基礎学問が曲がりなりにも整備されてきたお蔭で、充分成熟を遂げてきています。しかし、陸続とこの世界に入ってくる人たちも跡を絶ちませんので、そろそろキノコの先達たちは、キノコの名前を教えて喜んでいるレベルにとどまっている自分を卒業しなくてはなりません。断片的な疑似科学的発言なども脇に置いて、自身のキノコとの出会いのスリルを語り、生き物世界の最果ての領域に棲むキノコを絶対的他者としてどう受け入れてきたかを語りましょう。 この日、出会ったアミガサタケだけでも少なくとも4種以上は混じっていました。その違いを焦らず自分のものとしながら、キノコとしっかりと距離を測る生き方をはじめましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年04月14日 23時18分33秒
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