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カテゴリ:きのこの文化誌・博物誌
花すすき戸隠あたり昼の月 マダラ 蕨平(現在は白馬乗鞍コルチナと言われているらしい)の冬はスキー場になる稗田山中腹から西の戸隠方面をみてつくった作品。 信濃といっても文化圏としてはとても広大です。僕は大学の山岳部時代、夏合宿で1週間余りかけて憧れの立山、剣から後立山全山縦走をやり、のっけから剣ではなく、後立山連峰のいささか地味な鹿島槍、白馬(当時はしろうま)、とりわけ五竜岳の山容に魅せられて、四季折々通いつめました。その最初のアルプス縦走の折に五竜で猛烈な雷雨に遭い、リクルートのため遅れて参加の4年生らの後発隊との時間調整のため、五竜小屋には戻らずに頂上からの避難ルートの遠見尾根にあった遠見小屋に立ち寄り、小屋のオーナーと親しくなり、麓のオーナー宅で歓待を受け、ふたたび五竜から白馬までの山行を続行したのです。以来、小屋のアルバイトをしたり、麓の神城の田んぼの田植えや稗ぬき作業の手伝いや厳冬期の茅葺屋根の雪おろし作業に散々通い詰め、大学を出てからも、ここと僕らの建てた栂池の北隣の蕨平スキー場の公衆便所のようなささやかな山荘をベースに北アルプスを流離いました。 キノコを始めてからは、毎年の秋は戸隠へベニテングダケと会いに行く旅をはじめ、数年前にムックきのこクラブでの<懐かしの戸隠行>を加えると30回余り続けてきました。 しかし、僕の信濃の旅は北信(長野市・水内・更級)と中信(松本市・安曇野・木曽)地域に集中し、雪解けの頃の山巓付近の斑模様が武田信玄の五稜菱を描くことから命名されたという五竜が好きな割には上杉謙信のエリアに近いところばかりを訪ねていたことになります。 南信(諏訪・飯田・伊那)・東信(上田・小諸・佐久)に当たる地域はまったく縁の薄かったところ。南アルプスは関西からのアプローチの点で不便なことから一度も行っていませんし、上田はペンションきのこの小宮山さんを訪ねたのみ。小諸・佐久は島崎藤村への関心から仕事がらみでロシア人バイヤーと1度きり。南北八が岳や木曽御嶽をはじめとする連峰などは数度のみ。諏訪湖には、山抜きで諏訪大社への関心から2度訪ねたほかはとんと縁がなかったところです。 かっての愛読書「大和路信濃路」の堀辰雄とはいささか異なる視点で、信濃路を大和路との古代からのつながりで再構成することが、これからの僕の課題です。
朝の戸隠連峰
雨意こめた午後の鏡ケ池越しの戸隠山 諏訪大社は、スーパーきのこ時代を明確に意識したこの春からとても興味を掻き立てられ、再訪の機会を狙っています。野洲の麓で酒を交わしながら同じく諏訪への熱い思いを語り出したメンバーのTさんとAさん。あろうことかAさんはおそらく今頃諏訪湖界隈を流離っているはずです。 諏訪大社のそもそもの祭神は御左口神(みしゃぐちしん)で、原初はやはり男神(石棒)と女神(石皿)だったと言われています。 以下の男神そのもののタケリタケはきのこにカビが二重寄生したもの。 その次の写真のチャワンタケとヒナツチガキは女神そのものの形象。続いてベニテングダケの子実体原基が地を割ってきのこを創り出した端緒のもの。そののちさらに続く写真のように傘を開いて胞子を散布するおなじみのタワーを築いていきます。これらの卵から発生するかに見えるハラタケ目のきのこたちは両性具有、すなわちアンドロギュノスの形象だと僕は思ってきました。 <大地を蔵する如き>地蔵と同様に、キノコは、縄文以来の男神・女神のシンボルでもあるのです。
さて、諏訪への関心は、ここ数年ムックでしらみつぶしで踏査してきた大和路の聖地とリンクする形でしっかりと跡付けていきたいと考えています。 その前に、そろそろ江戸期の最下層庶民に徹した町絵師・蕪村と対決し、こちらも踏み分け道くらいはつけたいと思っています。 良弁、空海、法然、蕪村、宮沢賢治など、これらのたまたま歴史の表面に浮上したものの詳細不詳の人達たちは、僕にとってはきのこ人生を歩きつめた人物として写っています。<きのこの日本史外伝>を跡付ける事こそがスーパーきのこ時代の僕に課せられた最大の使命。 彼らの生の軌跡から火急の現代的な課題を導き出すこと。寄り道ばかりののんびり者の僕ですが、僕独自の大和路・信濃路にそうした諸々の無銘碑を掘り起し、これらの人物を随所にちりばめながら行き着くところまではきちんと形にしていきたいと考えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年06月23日 09時25分12秒
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