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カテゴリ:きのこの文化誌・博物誌
人間の生き方には、脱皮型と年輪型があると常々考えてきた。 脱皮型とは簡潔に言えば死と再生を繰り返す非連続を目指す、言ってみれば一世一代限りの芸術家的な生き方。リスクも多いがスリルも満点。年輪型人間とは年輪を太らせるという言葉があるように、断絶なく、じりじり成長を遂げる世襲を念頭に置いた連続性のある生きかた。スリルに欠けるがリスクを最小にして継続することに重きをおく。都市生活者と農村生活者と対置させることもライフスタイルといった点から見るとまんざら間違いではあるまい。 僕の周りには脱皮型人間が圧倒的に多い。しかし、世に出る人間というものは、多かれ少なかれ脱皮型と年輪型のバランス感覚の絶妙な人だと僕は思っている。 理想は、脱皮型を貫きながら、後継者や享受者たちが渇望し飛びつくような、本来一代かぎりのかけがえのないいのちのかけらをごく微量、その表現にもりこんでいくことだ。 親密な男女の間では子供が最高の創造作品。「子は宝」というのはそこから来ている。しかし、ちょっと背伸びの庶民なら、子供にまさる表現形こそがほしいもの。脱皮型人間は、ちよっと背伸びを繰り返し常に過渡・途上に身を置きつづけることが肝要だ。そうすれば作品はおのずと生まれてくる。 そのためのわがクラブの布石が言葉の芸術(→夜の顔)であり、きのこの彼方に見え隠れするさまざまな表現世界の発見(→ヘテロソフィア・アート)であり、さまざまなサロンなのだ。
脱皮型と年輪型の絶妙なバランスを図示したものが陰陽の二元世界・インヤン紋である。 地上的なものは重力に逆らって生成発展しようとするとねじれてらせん形をとる。この世界に螺旋文様が満ち満ちているのはそのためだ。
その典型的な形が「きのこ」であり、「きのこ雲」だ。白黒二つの巴型はきのこ雲の発生を斜めからみたものである。発生して渦巻きを巻きながら上昇しその渦巻きのクライマックスに至ると収束点で一挙に終息、もうひとつの渦巻きがつながる。そんな白黒(光と闇)二つの世界の創造収束の永劫の繰り返し運動を図示したものがインヤン紋だ。 僕が秋の端山を目指し、突然きのこの山にさまよいこんで、そんな見事なシンボル性を持った生き物が現実に存在していることに驚き、のめりこんでいったのが30余年前のことだった。 目には見えない頭脳と現象する身体に引き裂かれた人間に近い存在様式をもったきのこ。実存哲学や仏教哲学の唯識では、人間はあくなき未来へ投企しつづける頭脳が作り出すヴァーチャルな想像世界こそが本質で、切ったら血が出る現実的な身体はその付け足しとされる。 大型菌類は、目には見えない本体(=菌糸体)と有性生殖器官としての目にみえる大きさのきのこに引き裂かれた存在。通称・きのことは、その見えている部分を指していう言葉。それはあたかも逆立ちした人間存在モデルなのだ。
正まんじ 逆まんじ お地蔵さまの祠に描かれている万字模様は、元来インドの神様クリシュナの胸毛に由来するものでらせん型、すなわち生成発展のダイナミズムのシンボル。植物の蔓同様、右巻き、左巻きがあり、正・逆二つのまんじ型があるのはご存知だろう。 さて僕には、この脱皮型に魅せられ一代限りの青春を燃焼しつくす非常にバランスを欠いてしまった人たちが目について仕方がない。要するにうまくやっていけない人たちのことだ。僕も含めて現実から常に少し浮いたところで生きている人たちというのは「自分はそんなのとは違う」と思っているから、なおのこと救いようがない。 「存在の耐えがたい軽さ、無意味さ」をマロニエの倒木に感じて嘔吐したサルトルの実存小説の主人公ロカンタン。僕はロカンタンが嘔吐を感じたのは倒木ではなくそこに生じていたきのこだったと思っている。倒木などよりもはるかに没価値な存在。それが僕がある日突然出くわして衝撃をうけたきのこだったからだ。 そんな究極の没価値な存在であるきのこやくらげが気がかりな人たちが、僕のまわりに集まってきて自然発生的にできた会がグループきのこ星雲であり、J-FAS日本きのこ協会であり、現在のムックきのこクラブだったのだ。 そんな人たち、いや僕同様、きのこのようなどうしようもないものにあこがれる人たちがこの地上にはかなりな数、息づいていることを知ったのはもっと驚きだった。 以来、僕はそんなけなげな生き方を全うしようとする人たちが気兼ねなく生きていけるような空間をつくるためにこそ、僕の残された生涯のすべてを投じたいと考えてここまでやってきた。それは僕自身が気兼ねなく生きていける空間だからなおのこと、切実である。 光は太陽に代表されるもの。あらゆる男性的なシンボルが太陽なら間接的な光を表す月は影の存在。間違ってはならないが、決して闇ではない。 生き物はなべて闇を恐れ光を欲するが、その光にも2種類あり、直接的で速攻性のある太陽光そのものを欲する人と、間接的で直截的なものを補佐する光すなわち、受け身で女性的な月の光を欲する人たちの間にはピンとキリほどの大きなへだたりがある。 きのこは太陽族の顕花植物に対する隠花植物、すなわち月に属する生き物である。 そしてきのこも光なくしては生きていけない影の存在だ。 パワーゲーム、すなわち直截的・暴力的なものに終始する政治的なものに対して、どんなに回り道ではあっても非政治的な芸術・文学による徹底した間接的・非暴力による魂の成熟に重きを置くということは、ダイナミックなインヤン紋の流動性に依拠しながら、その流れからもあわよくば、いち抜けていく可能性に賭けるといった意味をこめている。 スーパーきのこ時代の僕たちの活動を仮に<月の光協会>と考えるのもそんなところに由来している。何か新興宗教めく命名だが、宗教文化もきわめて重要な要素なので決して否定するものではない。ただし一神教的な太陽神は否定はしないが僕たちには縁がうすいとする。 あらゆる文化・文明の粋を駆使して常に流動しつづける多彩な心を涵養するアート・ライフを目指す。これが宗教的でなくてなんであろうか。 こんなきのこをめぐる随想からはじまった僕の旅は、いよいよ子実体原基(きのこの素)を形成する段階に入ってきた。その中心的なテーマは、その中に今地球を見舞っているあらゆる問題を孕む「きのこと発酵」。 脱皮と年輪という相容れないふたつの極を行きつ戻りつしながら、さてどこへ行くかは厳格には決めずに、とりあえず本能の命ずるままにきのこをしるべに歩いていくことにする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年02月03日 17時23分57秒
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