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カテゴリ:きのこの文化誌・博物誌
立春を過ぎてまもなくの2012.2.11法隆寺の参道でみとめたマツカサキノコモドキ パスカルという思索家は『パンセ』という書物の中で、人間を「考える葦」といった。 考えること(頭脳)と葦(自然界でもっとも脆弱な存在としての湿地植物)に引き裂かれた人間存在の特異なあり方をこう表現したのだ。
ヌメリタンポタケ(冬虫夏草の1種) 基部のふくらみは別のキノコで二重寄生している。もちろん基部のキノコはタンポタケの菌糸体が充満していることは言うまでもない。マツタケをはじめとするキノコは、この基部にあたる本体は千分の数mmの菌糸体で、人間の頭脳の働き同様その1本1本は見えないほどのあえかなものだ。キノコと親しむようになって、かっても今も僕は、可視・不可視の両世界を合わせもつキノコは、人間そのもののモデルだと真実驚いたものだった。
一神教世界の欧米は、そののち人工知能を生み出し、神か、それとも不完全な被造物かという対比を無限に消去していくゼロワン発想を生み出し、今や自然そのものをそのシミュレートしたイメージで乗り越えようとするまでに発展してきた。 ヴァーチャル世界の創造主たる人工知能が生まの自然を凌駕しつつあるまでに成長してきたのだ。
大文字山でみそめた紅茸の仲間 しかし、僕にとって問題なのは、人間そのものは「考える葦」のままであることなのだ。人間の生み出した人工知能ITが人間のスケールをはるかに超えて肥大化しはじめた現在、考える葦(きわめて不完全な頭脳を乗っけたひ弱な自然界の象徴たる植物に等しい人間)とのバランスがきわめてインバランスになりはじめていることこそが問題なのだ。 人間は、ヴァーチャルな世界のイメージで処理される存在では決してなく、どんなに人工頭脳がシミュレートしようと、そのイメージとは似て非なる生き物なのだということ。
三田の奥谷公園のナヨタケ どんなに微分化、細分化しても元来目には見えない何かである「いのち」あるいは生命といったものはそのアミから漏れ落ちていくものだと私は考えてきた。 きのこという可視、不可視の両世界を股にかけた生き物と出会ったとき、パスカルの「考える葦」のもっともふさわしいモデルだと直感した。 このろくでもない世界を持続させるためにはネオ実存主義、ネオ生物学に基づく生命誌的な視点が必須であると思っている。きのこ観照旅行を感傷的にならずに続けてきたのもそのためだ。自然回帰、生命のための智慧、それをきのこと発酵という親しみやすいテーマで追及していきたい。 そして、僕自身も、一介のきのこにしか過ぎないとの立場から、靖国問題や沖縄の問題を戦争の英雄をこれ以上作らない「ノー・モア英霊」として訴え続け、肥大化した人間の頭脳が生み出した反自然の極たる原発を即時廃止するための文化運動を膨らませていきたいと思っている。 「人はお金のためには死ねないが、理想のためには死ねる」これこそが僕が地球最底辺の生き物・きのこの生物学と親しみ、きのこを通して人間存在をみつめてきた結論だ。 戦争放棄という理想を掲げた世界で唯一の理想の憲法をもつ国の1市民として、静かに訴えつづけたいと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年02月05日 20時29分02秒
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