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カテゴリ:川西きのこクラブ
この日の旅の終わりに近く、地黄城址の脇に咲いていたヨシノアザミ。カメラを向けると同時にセセリチョウが飛来してきてわれわれの気配を知りつつも、わき目もふらず吸蜜しはじめました。 生き物たちはこの小春の日々に冬構えを終えようと必死であることがひしひしと伝わってきました。 妙見口からバスで妙見山の奥へ入り、地黄のバス停で下車。 この地は、古くから物部氏に連なる野間連(のまのむらじ)が治めており、まず三つ巴と三宝珠の紋所の野間神社へと詣でる。かっては布留神社といわれ、その当時の社名の刻まれた灯篭が境内に残っています。 創建は奈良時代の推古朝。主祭神は物部の祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)。相殿に栲幡比売命(たくはたひめのみこと=機織りに関連する姫神)。鹿屋野比売命(かやのひめのみこと かや=住建材に不可欠だった萱、茅に関連する自然神)。そもそも妙見山全体をはじめ、境内の摂社には稲荷社と月読社が見られ秦氏の関与がつよく感じられる神社である。 面白いのは陰陽石が祀られており、砲弾を鋳込んで作られたと想像される鉄製の忠魂碑がひっそりと置かれていたことだろうか。 野間神社の陰陽石 砲弾と鉄製の忠魂碑 さて、いよいよ花すすきの手招きする小春日の田畑の間を抜け、奥の院を目指す。谷沿いの林道では、まだまだ秋の気配が濃く、秋のきのこたちに歓迎された(きのこは次回詳説)。 奥の院の妙見堂 小ぶりで軽妙な響きを奏でる鐘楼。 中世以降は、妙見山は能勢氏により日蓮宗に改宗、奥の院社殿脇には日蓮の御影堂、そして山全体が日蓮一色に。 その奥の院で妙号石の前で超大型きのこ発見。 何度も鐘楼突きを楽しんだあと、脆弱きわまりない杉林の山道をくだる。麓の真如堂までの数キロにわたる山道は、関西身延霊場となっており、寺の人たちの信仰心を偲ばせる箒目がつけられていて快適そのもの。ただそのせいで、きのこは遠慮がちとなる。 真如堂が見えてきました。昭和16年の宗教法改正により、妙見山全体がここの所属となったと言われます。 おそらく上の鬼子母神堂は、以下の持経寺の所属ではないかと思います。 ここには軍艦鈴谷の碑と乗組員戦没者の慰霊碑がありました。 さらに下ると廃校の隣には、地黄城址があり、ここが今回のコースの最後のビーク。能勢頼次は関ケ原の戦いに東軍につき、その戦功褒賞のにより失地回復を遂げ、ここに城を築き一万石の城主に帰り咲きます。 持経寺(=地黄寺)といい、ここの地名となった地黄(じおう)は、中国東北部原産のゴマノハグサ科の多年草。 平安時代頃よりこの地で栽培され特産地となったことによる命名のようです。赤褐色で肥大した地下茎を強壮剤として薬用にするために栽培。茎は直立して高さ 15~30cmになり、全体に軟毛を密生し、根ぎわに根生葉を多数つけると言われますが、私は薬とされる根は知っていますが、今でも栽培されていると聞く植物の自生しているところをまだみたことはありません。 地黄の花 ウエブよりの引用 そしてもうバスを待つばかりと思いきや、秋鹿の造り酒屋さんに連れてってもらいました。S画伯が買って飲ませてくれた原酒は、道中の賀茂鶴と負けず劣らずうまいものでした。 山旅を無事終え、バスを待ちながらヒツジ雲を仰いでいると、誰かが来年は丑年であることを教えてくれました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年11月23日 23時35分50秒
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