萬福寺を訪ねた目的は、明恵と宇治の関係。それから売茶翁の事績に触れる為。さらに隠元禅師が鎖国政策をとっている徳川幕府をどのように動かし萬福寺を日本の中心地に建てさせたかである。
明恵の次は売茶翁と参ろうぞ。
萬福寺総門を入るとすぐ右手に泥亀がプカプカ浮かぶ放生池があり、その奥に茶堂がある。
ここで煎茶の会が開かれているのだろうか、「茶禅」と扁額の掲げられた建物があった。その隣のお堂には売血翁が神様然と祀られていた。
扉の隙間からのぞくと木彫の売茶翁像がおどけた顔で鎮座まします。見ているとアカンべーでもしそうな表情で私好みのなかなかステキな出来栄えである。
肥前(今の佐賀県)鍋島藩の御殿医の父のもとで生まれ
11歳で出家。龍津寺の化霖禅師について禅を学ぶ。
13歳で師に連れられて宇治の萬福寺を訪ね、化霖の師の独湛禅師より見込まれ偈を与えられたという。
22歳で病を得たことをきっかけに全国行脚の旅に出、帰郷後、化霖禅師に14年仕えた
57歳の時、師が遷化すると龍津寺を法弟に任せ京へ上った。 61歳で東山に通仙亭を開き、京の方々で簡素な茶筵を広げ、茶を売りながら禅問答で教化するサロンを開いた。
池大雅や伊藤若冲はこのサロンに通い詰めたという。
70歳で還俗、高遊外を名乗り茶禅に没入。
81歳で売茶業にバイチャ(あられちゃん風のさよなら)。宝暦5(1755)年のことである。以後腰痛と闘いながら揮毫で身を立てなんと87歳まで生きた。
私は、実はこの翁よりも蕪村に関心があり、彼が同じ画師仲間ではあった割には売茶翁とはやや距離を置いていた模様なので、その辺の事情を探りにきた次第である。
もちろんそんなこみ入った事情はぶらりと宇治を訪ねただけでは分からないのは当然だが、こうして酔眼でひたすら虚心坦懐にばか話に打ち興じながら歩いていると他日思いがけないところでデジャブ―が立ち上がってくるのだ。
ただ、蕪村は自作品に如何なる意味でもオーソライズすることを嫌ったので、大だなの息子で相国寺の高僧に見込まれた若冲とは気おくれするものがあったか、そりが合わなかったのではないかと思っている。そんな次第で売茶翁とも遠巻きのおつきあいに終始したのかもしれない。
売茶堂の片隅には茶具塚もあり、とても良い雰囲気が漂っていた。