黄檗樹とは和名キハダのこと。初夏に黄色い花をつけ樹皮はせんりょう薬用に用いられます。皆様よくご存知の役行者由来の胃薬・陀羅尼助の主原料はキハダです。萬福寺文華殿のそばに植えられています。
開山堂 まず目につくのはバーミヤン・マークの緞帳。ここには隠元隆琦さんが祀られているという。とばりの向うから顔をのぞかせている方がそうらしい。なかなかのイケメンだ。
インゲン豆にその名を留める隠元禅師。鎖国の江戸時代に渡来して列島で黄檗宗を開宗、以来その門弟たちは精力的に布教し、現在までに黄檗宗は11流に膨らみ、全国に1010寺院もあることには驚きを禁じ得ない。
こんな機会でもなければ彼のプロフィールを紹介することもないだろうからちょっと長くなるがここで述べておこう。
隠元隆琦(いんげんりゅうき)さんのこと
明朝の万暦20(1592)年11月4日福建省福州府福清県万安郷霊得里東林村に林徳龍と龔氏の母の間に生を享ける。林氏の3男。
6歳のとき父が商売に出かけ行方不明となる。
21歳の時、父親探しの旅に出、2年間放浪したが、父は見つからず、浙江省の普陀山に詣で潮音洞の僧侶に拾われ、そこで参拝客にお茶の接待をする茶頭(ちゃじゅう)として働らく。ここでまず煎茶とつながります。
24歳になり東林村の母のもとへ帰り、28歳で母が亡くなるまで世話をして、両親とともに幼時からよく参詣していた印林禅寺で荼毘に伏す。
明朝・万暦48(1620)年2月19日黄檗山萬福寺で鑑源を師として剃髪出家。隠元29歳。
翌年から再び浙江省行脚の旅に出、33歳の時に廣慧寺(こうけいじ)で密雲禅師に出会いそこで修行を重ね35歳に師の密雲禅師の説法会で五峰禅師に啓発され禅の本源について悟りを開いたと言われる。
崇偵3(1630)年3月、萬福寺住持となる密雲禅師に従い萬福寺へ復帰。
42歳になり、密雲禅師の弟子・貴隠禅師が住持となると隠元は西堂に就任し彼を補佐し、彼から嗣法を授かる。
崇偵10(1637)年11月1日萬福寺住持に就任。隠元46歳
崇偵13(1640)年萬福寺大雄宝殿の再建に着手、4年後の崇偵17(1644)年隠元53歳で再建完成。
崇偵16(1643)年、隠元は無得海寧に初めて印可状を授け、以来10年間で木庵や即非など12名の弟子に嗣法を授けています。
崇偵17(1644)年 明朝滅亡 李自成が反乱を起こし北京を占領、荘烈帝は自殺して明朝は滅亡。福建省も全土が戦禍で荒廃したが萬福寺は破壊を免れます。
そして明朝滅亡の年、弟子に萬福寺を譲り、浙江省の廣慧寺の貴隠禅師を訪ね、そのまま、浙江省の福厳寺に生きそこの住持になります。
順治3(1645)年、福建にもどり福州府の龍泉寺の住持となり、
翌4年、再び萬福寺住持に就任。隠元は結局、中国萬福寺で2度、計17年間萬福寺の住持を勤めたことになります。
中国の黄檗山・萬福寺は、唐代の貞元5(789)年正幹禅師によって般若台として開山。黄檗希運禅師はここで学び、その弟子臨済義玄禅師が臨済宗を開宗しますが、そののち荒廃してしまいます。
しかし、ずっと時代は降り、万暦42(1614)年大蔵経と萬福禅寺の寺号を下賜され明王朝の勅願寺になり黄檗禅(中国臨済)の法灯を継ぐ寺となります。
そんな経緯もあり、明朝滅亡の政変に隠元は大いに迷ったのでしょう。彼のかっての師を訪ね、方々の寺をたずね歩く旅はそんな彼の苦悶にみちた日々を偲ばせます。
この懊悩の前史があって、やがて隠元は我が国で黄檗宗を開くことになるのです。
長江中・下流域の福建、浙江省は華僑の原郷の地。15世紀半ば頃よりこの地の人々は朝鮮、琉球、東南アジアへと盛んに交易のために進出。我が国には1571年の長崎開港以来浙江省、福建省の人たちが盛んに来航し中国人社会を形成。そして明末の動乱を逃れて多くの中国僧が長崎へやってきて次々と寺院(唐寺)を建立していました。
そんな在日の僧たちの度重なる要請を受けて、良き明朝時代の再現を熱望していた隠元は、来日を決意するのです。
順治11(1654)年6月21日鄭成功の援助のもと30人余の弟子を伴い厦門を出航、7月5日長崎に到着。まず長崎興福寺の住持となります。隠元63歳。
翌1655年福州出身の人から懇願され5月、長崎崇福寺の住持を兼任。
さらに8月9日長崎を離れ摂津の普門寺に入ります。
これに驚いた幕府は徳川家の重臣でふあった前京都所司代の板倉重宗を派遣、普門寺で2度に亙って接見し、彼が隠元の普門寺在住を支持したことで畿内に拠点を持ち、厳しい鎖国時代に異国の高僧・隠元に興味を覚える貴顕の間で黄檗禅は急速に広まることになります。
1658年11月1日隠元67歳の時、江戸城に招かれ将軍家綱公に拝謁をゆるされ、この異例の事件から武家の間にも理解者が数多く輩出。
1659年5月、時の大老酒井忠勝より「日本に留まり黄檗禅を弘めよ」という幕府の意向が伝えられ、隠元はそれに従うと返答。
1660年4月 山城の宇治大和田(現宇治市)に幕府より寺地を下賜。
翌1661年 隠元は故地と同名の黄檗山萬福寺と命名。
1663年1月15日萬福寺法堂で祝国開堂を行い天下に黄檗宗の開立を宣言。
ここには、中国との交易を太らせたいという幕府の狙いが込められておりそのための例外中の例外として幕府公認の治外法権域を認めた方が得策だと考えた幕府がわの思惑があったと思われます。隠元や彼に従ったその弟子の木庵や即非などはその意向に応え、のちに黄檗文化と呼ばれる中国の建築、彫刻、書道、医薬、絵画、音楽、木版印刷術、料理、茶道、さらに生活様式にいたるまでわが国にもたらしてくれたのです。
1673(寛文13)年4月3日、隠元禅師示寂。82歳
明朝様式の伽藍、仏教儀礼も明代のものに従わせ、代々の住持も13代目までは中国僧で押し通し、読経も黄檗唐音(とういん)で発声、僧侶も寺域で日本語を使うことを禁じられていたというから徹底しています。
祖師堂には達磨大師と思われる木像が安置されていました。
売茶翁につらなる煎茶の習慣も隠元がもたらし、喫茶の習慣が庶民社会に浸透することになります。
飲茶にあこがれを抱く私が、風薫る5月の萬福寺へ詣でた意味は、この不思議な空間がいかにして出来上がったかを体感するためでしたが、それ以上の収穫を得て寺を後にしました。
大王殿脇には菩提樹の木と花をつけたもみぢの木影にひっそりと鎮守社が祀られていました。
中国は我が国にとっては古代より切っても切れない関係にあります。世界の警察を自任していたアメリカの弱体化が露わになってきた現在、中華思想のかっての栄光を取り戻したいと焦る中国共産党は、大国の余裕を失っていますがそれには複雑な国内事情がからんでいます。その中国とは違和をあげつらうよりも、日本も対米従属一辺倒の姿勢を少しずつ改め、両大国の論理に対して小国の智慧を発揮し、力を蓄え、対等につきあうための理解を深め、対話を深めることのほうがはるかに大切だと思います。そんな意味でこの青葉の季節に日本黄檗宗の本山を訪ねたことは無駄ではありませんでした。けなげに生き抜く可憐なきのこたちにも出会いましたしね。