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カテゴリ:島なみクラブ
この夏の終わりは、何度も心臓手術を重ねながらも最期まで慰霊祭に尽力してくれたKさんが、この5月8日にお亡くなりになったので、追谷への墓参を兼ねて志染のお宅を訪ねて線香を手向けてきた。 また開廊直後に訪ねたギャラリー島田のオーナーは高校時代の私の先輩だが、4歳年上のため在学中にはお会いしていない。彼も何度か脳手術を重ねながらも根性で生きている。 私のまわりには、私を含めてもう死んでいてもちっとも不思議でない人たちで一杯だ。そのそれぞれが、自分が生きてきた意味を問い続け、それを探し求めながら日々を送っている。 4月29日以来久しぶりに追谷墓苑に来てみると、60年ぶりに市章山直下の小山が刈り取られ、小さい頃よくお化け屋敷として親しんだお堂が姿を現した。この夏はそれで、おとぼけ地蔵の背景もがらりと変わった。 僕の子供の頃おやじがロシア国境付近の樺太でのラジオ傍受の仕事の際によく流れたというロシア歌謡の<酒を愛する歌>「歳月も世紀も移ろい、人の心もその好みも流行も変わり行くばかりだが、ロシアの人たちの酒を愛する心だけは変わらない」を<プラホージャト・ドゥニー・イ・ゴーディ・イ・べグ―・ベカー・ウホージャト・ドゥニー・イ・ナローディ・イ・ヌラヴィ・イフ・イ・モーディ ノ・ネイズメーナ・ヴェーチノ・ラシアノ・リュブビ・ヴィノー>と何度も口ずさみながらロシア語で教えてくれたのを思い出す。歳月人を待たず。しかし、おとぼけ地蔵も随分長くおとぼけ顔のままつきあってくれている。生かされる間、今しばらくおつきあい願おう。 スズキコージ展の続きもおまけしておこう。全身きのこ表現者の彼もなりふり構わず生き抜いている。 結局は、後の世に贈る言葉とは「なりふり構わずに生き抜くこと」だけかもしれない。「Going my way」ただし、いかなる形でもよいからそれを表現して果てることは心に留めておいてよいかもしれない。何十億という命のたったひとつぶの余計者としてそれを表現すること。微生物きのこが私に教えてくれたことはこの一語につきる。 実に愉しい空間が神戸の山手に秘かに花開いている。 興が乗れば、絵本の一つでも買ってコージどんが在廊していればサインしてもらえばいい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年08月06日 17時58分56秒
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