近江京で天智が志半ばで崩御した後を継いだ大友皇子は、天智天皇を葬ったあと額田王とその大海人皇子の間に生まれた子で、大友皇子の正妃となっていた十市皇女とその母が近江京から去るのを許している。
それは、大友自身がまもなく訪れる大海人皇子の反乱を予期していたように思われてならない。壬申の乱はのちの天武、すなわち大海人皇子が王権簒奪を企てた戦さであったと私は考えるからである。
大海人皇子は、歴代天皇の中でも私がもっとも好感をもってみつめてきた破天荒な天皇であるだけにその思いは複雑であるが…。
その悲劇の大友皇子が天智亡きあと束の間、玉座に座し自らの運命の火を見つめた日々の果ての壬申の乱で「もはやこれまで」と覚悟を決めた終焉の地がこの山前(やまさき)の地であり、後年、弘文天皇と諡号され葬られた。大津市役所の裏手の新羅善神堂の小暗き森と隣り合わせに在る。夕闇迫る時刻に訪れたが、この地は夕あかねが彩りを添えることもはばかられるほどの悲哀の表情で満ちていた。
冬ざれの墳墓染めずや夕茜
束の間の栄華廃都の冬紅葉
弘文天皇山前御陵のさらに西の山側に湖を見据えるかのように立つ鳥居があり、その奥へ辿ると行き止まってしまう。怪訝(けげん)に思って右手を見ると見事な檜皮葺、流造の新羅明神を祀る堂が望まれた。足利尊氏創建と伝えられる、この園城寺(三井寺)界隈では最も古い塔頭であるといわれる。
弘文天皇陵といい新羅善神堂といい、紀元2600年を記念して戦勝に沸く太平洋戦争初期の昭和15年(1940)に建立された皇国思想の権化のような近江神宮の豪奢なたたずまいを見た直後に訪れた場所であったこともあり、感慨も一入(ひとしお)であった。
この日の旅の主目的は、この大友皇子の陵を訪ねるものであったが、崇福寺址といい、百穴古墳群といい、湖西から大和盆地北部に勢力を伸ばしも古代名族を輩出した和爾(わに)氏のこと、そしてわずか5年で幕を閉じてしまった近江京が方々の遺跡をつないで余りある巨大な都市であったことを改めて感じたことである。
近江神宮は天智天皇をお祭りする神社で、折から七五三のお祭りも手伝って、美しい着物姿の女性も多く集っており、その明暗を際立たせていた。
そこから浜大津へ出て、同行のUさん馴染みの小川酒店に立ち寄り、店主おすすめの地酒数種を試飲させてもらい、そこの亭主おすすめの小料理屋さんを暮れなずむ大津商店街散策ののちに訪ねた。
その店は、もてなし亭 とっくりといい、JR大津駅の大きなバスターミナルに面した駅ビル1Fにあった。つきだしからしてとても趣向を凝らしたもの(写真上)で、さすが小川店主の推奨した店だけあって、ふところ具合を考えながら注文したものも、お酒も併せて2千円ちょっととリーズナブルで大満足。