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2022年06月16日
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 箕面の滝には役小角伝説が伝えられており、箕面市の西、現在の行政区の池田市との境界域辺りを流れる石澄川にも行者が足しげく通う詰めたらしく、仏教廃寺が残されている。

 石澄滝の落ち口には不動明王像と鬼に似た生き物像が残されていた。
 このあたりの地名の元となった畑地区に秦氏たちが入植して開発したのは、5世紀後半以降だが、これ以前から山林修行者たちが、鉱山資源や薬草を求めて入山していたようだ。


 石澄川流域にはこうした間歩(まぶ=採鉱の坑道跡)が散見される(写真上と下)。古代には自然銅、大戦中は鉛が採掘され、秦野鉱山として名をとどめている。

 この不思議な建物(写真下)は、立ち寄ってみると廃寺のようで、内部は道観(=道教寺院)のようだった。おそらく戦後、朝鮮や中国の人たちがこの流域に隠れ住み信仰の対象としたのであろう。

 来迎図のような曼荼羅図が本尊の背景に描かれているが、諸仏とともに多くの方士のような人物像が多く描かれている。こちらは比較的最近まで使われていたようで、境内地とおぼしき平地の取りつきには所有者の届け出を待つ池田市の立て札が建てかけられていた。

 その下流には寺院跡の石段があり、石仏と「大聖北(斗?)七元星君」と彫られた-北辰信仰にかかわる石柱もみられたので、密教行者と道教信者がともに水垢離をし、行に励んだのであろう。

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 その道観のすこし上流には密教系の行者たちが滝行をする際の宿舎とみられ、仏教寺院跡が残されていた。
 廃寺脇には完全形をのこす石仏と腰から二つに折れた石仏が寄せられていた。年号は刻まれていないが比較的新しい石仏であった。


​ 寺の内部は荒廃しており仏像仏具の痕跡すら残されていなかった。​


 滝つぼのあたりで摂った石澄川の分岐から支流へ分け入り、尾根筋を辿ってかっての秦野鉱山跡の中心地を探したが、特定できなかった。
 おそらくこの流域全体を試掘して巡り歩いたのだろう。その鉱山事務所となった神社が下流域にあるはずだ。
 まず物部氏たちが開いた猪名川流域に山林修行者たちが入山し、そのあと秦氏たちが大規模に開墾し、町づくりを行い、鉱山もさらに開発したのだろうと考えた。ただ、青銅器の原料となる自然銅は得られたかもしれないが、大戦中に採掘された鉛が古代より採掘されていたかは疑問である。
 さらに錫となれば山科からこの猪名川流域の鉱山跡地から得られていたかとなれば益々不明である。次回は亀岡の行者山へも足を伸ばしたい。


 歴史時間は現代の私たちからすれば、長い長~い時間の堆積があり、そのどの層が今の私たちに口を開いているのかはさらに突き詰めて考えなければならず、今のところ全く不明である。
 秦野鉱山跡地探しの旅はこのシダの影を追うようなものではなはだ心もとないものだったが、手ごたえはたしかに感じた。この感触を記憶に留め、さらに旅をつづけよう。






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最終更新日  2022年06月16日 09時04分46秒
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