1794809 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

夢みるきのこ

夢みるきのこ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

2024年01月20日
XML


 宮沢賢治への導入口として不朽の名作と思しき著書は、中村稔の『定本宮沢賢治』(1966年・㈱芳賀書店刊)と天沢退二郎の『宮澤賢治の彼方へ』であろう。半世紀以上も前の著作であるが、本書を繙けば、夥しい赤や黒の線や書き込みが往時の問題意識からさほども隔たっていない私がいる。中村稔はその後、まもなく「長年、二流の詩人に関わりすぎた」との言葉を残して賢治と訣別したが、彼の半生に及ぶ賢治へのこだわりがなければ今日賢治がこんなに世に知られる存在とはなりえなかったと思う。

 他方、天沢退二郎の『宮澤賢治の彼方へ』(1968年・思潮社刊)は賢治の作品論として独自の輝きを放っている。文字通り詩人・賢治の作品の彼方を目指して書き起こされた本書は、中村とは全く違った意味で珠玉の作品論となった。  
 NEO博物学の時代は、宮沢賢治再考と以前に述べたマルクス最晩年の到達点から出発した斎藤幸平の『人新生の資本論』と『コモンの自治論』を原本としての出発となりそうだ。私はきのこと関わり40年の歳月を送る間に市民という者に対して斎藤幸平らの世代の人が同じ40年をかいくぐって生き延びたとすれば思い当たるであろう実感を手にしている。それが「ちょっと背伸び」という言葉に集約されるものだ。これなくして市民の自治論は成立しない。それはすべて個人の責任に帰せられるものだというのが私の掴んだ実感である。 それは、それぞれの市民が「たった一人の革命」を遂げなければ実現できない、限りなく不可能に近いものなのだ。それなくして自治もへちまもない。それぞれが日々「ちょっと背伸び」し、自己を社会化していくことを置いて、実現しえない。その狭き門を市民一人一人の力で押し開くことこそが今試されているのだ。それは、仏教でいえば小乗から大乗へと数世紀かけて移行していっていまだその解がしめされないままのものであり、おそらくは八方塞がりの人間の生にまつわる絶対矛盾そのものなのだ。賢治はそれを詩人となることで答えを見つけ出そうとし、道半ばで果ててしまった。
 ひるがえって21世紀の現在、文学も詩も極く一部のひとたちの特殊世界を除いて衰微しきってしまいヴァーチャルな幻想世界で人は生きれるのだという新興宗教にも似た他愛もない幻想が世を覆い始めている。
 NEO博物学はそんな社会にとって最期の抵抗となる可能性が高いが、その担い手は、学者や知識人ではなく、ましてや政治家や経済学者でもなくちょっと背伸びの市民でしかないのだが…。しかもそのちょっと背伸びが当たり前のように可能なのが、ずぶの生活者ではなくアーティストでしかないと言うのが私の40年をかけて思い知らされた事実なのだ。

残された時間はすでに僅少だが、その普及にすべてを賭けたい。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年01月20日 11時11分25秒
コメント(0) | コメントを書く
[きのこ通して地球を考える「月のしずく」] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X