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まいかのあーだこーだ

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2022.12.11
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カテゴリ:NHK大河ドラマ
NHK大河「鎌倉殿の13人」。
ついに北条政子の演説が描かれました。



なぜ彼女の言葉は、
坂東武者たちを奮い立たせたのか。

それは、
「頼朝さまの御恩」うんぬんの話じゃなくて、
結局は、
「西のヤツらにまた馬鹿にされてもいいの?」
ってことだったようです。

その呼びかけへの脊髄反射が、
それまでの内部矛盾をすべて帳消しにして、
ほとんど勢いだけで朝廷打倒へ向かっていく。

現実の歴史なんて、所詮はそんなもんよね。



鎌倉幕府は、
まともな政治体制じゃなかったんだと思います。

関東発祥の新選組が、
内ゲバだらけのヤンキー集団にすぎなかったように、
関東に拠点を置いた鎌倉幕府もまた、
内ゲバだらけの広域暴力団にすぎなかった。

三谷幸喜は、
2つの大河ドラマで、その内実を暴いたといえます。



頼朝が生きてるあいだは兄弟どうしの殺し合い。
頼朝が死んでからは御家人どうしの殺し合い。

…そして、
義時が執権になったあとも、
口先では「頼朝さまの遺志を継ぐ」と言いながら、
実際には源氏の血筋を容赦なく根絶やしにしていたし、

さらに、
口先では「北条のためだ」と言いながら、
実際には父を追放し、姉妹の子や孫を殺害し、
あげくには妹の実衣まで殺そうとしていました。

頼朝の恐怖政治にも、
ほとんど大義名分なんてなかったけれど、
義時の恐怖政治にも、
やはり大義名分なんてなかったと思う。

ただ、
そのつどそのつど言いがかりをつけては、
目についた政敵を次々に粛清しつづけただけで、
その矛盾した統治理念はロジックが破綻しつづけていた。

いってみれば、
それは田舎ヤクザのあてどない内部抗争だった。



にもかかわらず、
なぜ承久の乱において御家人たちは団結できたのか。

…これは、
あくまで三谷幸喜の解釈だとは思いますが、
第一の理由は、
妹の実衣を救うために政子が尼将軍になったから。
第二の理由は、
彼女がある種の「関東ナショナリズム」を焚きつけたから、です。

べつに、亡き頼朝さまの御恩が、
「山より高かったから」でも「海より深かったから」でもない。
源氏の血統と遺志を受け継ぐなんてのは、
あくまで後世に語り継ぐためのタテマエにすぎない。

むしろ、
このときに政子が持ち出したのは、
親方の「頼朝さまの遺志」じゃなく、
亡き兄「宗時の野望」だったというべきです。
その野望を御家人たちにも植えつけたわけですね。

坂東武者の世を作る!そのてっぺんに北条が立つ!


たしかに、
追討の院宣が出た時点で、

執権=北条義時の名は、
清盛、義経、頼朝に並んで歴史に刻まれるべきだったし、
これまで埋もれがちだったことのほうが不思議だと思う。

トキューサが、
追討令を「記念に欲しい」と言ったのも無理はありません。
記念に取っておけば、
そのうちプレミアがつくかもしれないような文書だし、
追討の院宣って、それぐらい歴史的価値があるといえる。

けれど、
幕府の歴史を正当化していくためには、
やはり北条の名前を目立たせすぎてはいけないし、

朝廷を打ち負かす大義名分も、
あくまで「頼朝さまの遺志に報いる」って建前でなきゃいけない。
そのためにも、政子の演説は、
「山より高い」だの「海より深い」だのって話にしとく必要がある。
そのシナリオを書いたのは大江広元だったわけですね。

大江広元は、
義時を生かすためにこそ、
最後の最後に義時の意思に背いた形になりましたが、
政子は、そのカンペさえも無視して、
関東武士の短絡的なヤンキー魂に火をつけたのでした。




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最終更新日  2024.06.17 19:28:51


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