カテゴリ:NHK大河ドラマ
NHK「光る君へ」第42話。
三条天皇は、 妍子きよこちゃんを中宮にするだけでなく、 道長の抵抗を押し切って、 娍子すけこさんのことも皇后にすると決定! ◇ しかし、 妍子ちゃんの儀式は盛大に行われたのに、 娍子さんの儀式は閑散としたものに終わる…(T_T) 道長は力の差を見せつけた形です。 ただ、 それで彼の権力が頂点をきわめるかと思ったら、 比叡山で石を投げられた祟りとかで病におそわれ、 あげく退官して宇治での療養生活へ入ることに。 かえって大きな躓きになってしまった…。 ◇ ちょうどそのころ、 まひろは、 光源氏の死を描いた「雲隠」の章を脱稿。 (じつは題名だけ書いて中身は書いてないとの説あり) 自分自身の人生の終わりをも考えはじめてた。 ところが、 宇治で再会した道長は、そんな彼女に一言! 「俺より先に死んではならぬ」 by さだまさし。 …左大臣の関白宣言w (つーか、左大臣すら辞めたばかりだよね) ◇ 実際、 道長は関白にはならなかったけど、 なぜか彼の日記は「御堂関白記」と呼ばれてる。 実質的な関白と見なされてたのかも。 道長は生前一度も関白とならなかった。「御堂」の名称は、晩年の道長が法成寺無量寿院を建立して「御堂殿」「御堂関白殿」と呼ばれたことによる後世の呼称である。しかし「御堂関白記」の呼称は江戸時代にはすでに通称になっていたようである。 そして、 あらためて道長とともに生きる力を得たまひろは、 光源氏亡き後の新章の執筆を宇治で開始。 それが「宇治十帖」と呼ばれるのですね。 いろいろと辻褄が合ってる!! なかなか上手く出来たストーリーでした。 寛弘9年(1012年)1月に顕信が突然比叡山に登り出家してしまった。道長はかねてより自身の出家を志していたが、その意志を遂げないうちに息子に先を越されてしまったことを酷く嘆いている。5月に延暦寺で顕信の受戒が行われ道長も参列する。ここで道長は騎馬のまま比叡山に登ったため、法師から馬から引きずり下ろせとの放言を受けたり、石を投げつけられたりされてしまい、藤原実資から「相府当時後代の大恥辱也」と批判されている。この仕打ちに対して道長は、老いて徒歩で登るのはつらいから馬で登っただけなのに石を投げつけられるのは心外だ、と自らの正当性を主張している。 娍子の立后の日と妍子の参内の日が同じ日(4月27日)に重なってしまう。当日は妍子の参内の儀を終えた後に娍子の参内(本宮の儀)が開始されるスケジュールが組まれていた。実際に妍子も本宮の儀に参列しており、両方の儀式を掛け持つことは不可能ではなかった。しかし、道長は本宮の儀を欠席、道長の威勢を憚って右大臣・藤原顕光(病気)と内大臣・藤原公季(物忌)も障りがあるとして欠席し、これを見た公卿・殿上人も多くが欠席してしまった。この有様にやむなく、三条天皇は右近衛大将・藤原実資を呼び出して儀式を行わせている。なお、実資の他に参内したのは、中納言・藤原隆家(皇后宮大夫)、参議・藤原懐平(実資の兄)、参議・藤原通任(娍子の兄)といずれも娍子を後見する立場にある3名のみと寂しい儀式となった。一方で、道長は妍子の参内の参加者に対して非常に神経質になっており『御堂関白記』に不参の公卿として、本宮の儀の準備のため天皇に呼ばれた実資に続いて隆家・懐平を記し、年来親しく交際している人々が来ないことを気にしている。
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最終更新日
2024.11.04 11:05:10
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