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クドカンの「ふてほど」最終話。
寛容ソングはずいぶんと長尺でしたねw だいたい予想はしてましたが、 最後は、震災の行方不明者が未来に生きる希望を残した形。 もともとクドカンは、 お決まりの《入れ替わり》とか《タイムリープ》とか、 1980年代の大林宣彦が、 「転校生」や「時かけ」で定式化したモチーフを、 これまでも繰り返し使ってきたのですよね。 … たまたま最近、 その大林宣彦の「時をかける少女」を、 U-NEXTで初めてちゃんと観たのだけど、 あの物語は、 ただのタイムリープの話ではなく、 じつは《代理》をテーマにした話だと知りました。 それがクドカンにも継承されてるなと感じます。 ◇ 大林版の「時かけ」における深町くんは、 未来人として現代に存在してるのではなく、 むしろ未来人であることを隠すために、 他のだれかの《代理》として出現しています。 ある部分では、 すでに亡くなったはずの「深町家の孫」の代理として存在し、 ある部分では、 芳山和子の中の「吾郎ちゃん」の記憶をすり替えながら、 やはり、その代理として存在してる。 のちの角川版や細田版では、 この《代理》というテーマが十分に追求されていません。 ◇ これは、 すでに下のシネマレビューにも書いたことだけど↓ https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?SELECT=24063 芳山和子が深町くんに抱いた恋心は、 じつは吾郎ちゃんに抱いていた感情の《代理》なのです。 それは、ちょうど、 富田靖子の「さびしんぼう」で、 主人公が白塗りの少女に抱いた恋心が、 じつは主人公の母親への想いの《代理》だった、 …という構造とほとんど同じです。 それによって、 もっとも身近な誰かへの想いに気づく物語になってる。 ◇ そして、もうひとつ、 すでに存在しないはずの「深町家の亡くなった孫」が、 タイムパラドックスによって存在してる面があって、 そこには「存在しえなかった死者」を現出させる意図も感じる。 大林宣彦は、そういう物語を被爆地の広島で撮ったのです。 タイムリープの物語というのは、 たんに過去や未来へ時間旅行するだけの話じゃなく、 「存在しないはずの誰かが存在すること」 の意味を問う物語なのですよね。 … 今回のクドカンのドラマでも、 「存在しないはずの誰かが存在すること」 の意味を、かなり意識的に掘り下げたと思う。 つまり、 阪神大震災で亡くなった人々が、 タイムマシンで未来に出現する設定になってて、 仲里依紗が演じる渚は、 すでに亡くなった若き母と姉妹のように接したり、 すでに亡くなった若き祖父と恋人のように接したりします。 これも、 尾美としのりが富田靖子に恋したのと似ていて、 本来は母や祖父に抱きがたい感情が生まれてる。 その意味でも、クドカンは、 大林と同様の《代理》の物語を追求してると思う。 残念ながら、わたしは観てないけど、 クドカンがもっとも意識したのは谷口正晃版なのかも。 ◇ スピルバーグの「Back to the Future」もふくめ、 その後の《タイムリープ》の多くの作品には、 そういう視点が抜けていて、物語としての深みに欠けます。 とくにスピルバーグの場合は、 筒井康隆よりも藤子不二雄を模範にしてるのよね。 人間関係が「ドラえもん」とまったく同じなのです↓ https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?SELECT=24063 なお、 先月の「アストリッド&ラファエル」の記事にも書きましたが、 この《タイムリープ》という和製英語は、 筒井康隆が「時をかける少女」で発明した造語のようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.13 02:03:53
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