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テーマ:政治について(19986)
カテゴリ:政治・火影内閣
住友鋳鋼所(住友金属)の職工であった西尾末広が、大正元年に創設された日本初の労働組合友愛会に参加。 大正六(1917)年、ロシア革命。 大正八年(1919)に「大日本労働総同盟友愛会」と改称したのち、西尾末広はその中心となる。 大正十二(1922)年秘密結社日本共産党が結成されると分裂の動きが出る。 大正十三(1923)年、西尾は総同盟主事となり、ILO代表随員として渡欧。 ILOの総会終了後、招かれてソ連を訪問したが、そこで見た共産主義国家の姿に西尾は、 「多くの虚偽があり、事実を曲げた宣伝がある」と感じた。 逆にイギリスの議会制民主主義を間近に見て、感銘を受けたことの方がのちの政治家西尾末広にとって大きく、当時は初の労働党内閣ができて間もないことでもあり、西尾はこのイギリスの姿を強く心に焼きつけて帰国。 翌年、総同盟左派グループは労働組合評議会を組織して総同盟から脱退。・・・共産党の策動により左派へ かような経過がある。 太平洋戦争により日本は壊滅的打撃を受けたが、これもコミンテルンの活動によって当時のルーズベルト米国大統領を動かし、日本の和平案を覆し真珠湾攻撃を誘導させたとの最近の研究(米国秘密文書の公開)もある。 戦後も、ソビエト共産党・コミンテルンは日本共産党を通じ、さまざまな形でわが国の各種闘争と反日活動に関与、とくに社会党及び総評が影響を受けたため、西尾末広は左傾化した社会党から離れ同盟系労組とともに民社党を結党した。 つまり、ソ連共産党だけでなく日本共産党結成前からの生粋の日本労働運動の流れが、旧同盟系労組と旧民社党に受け継がれてきた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年08月29日 12時34分37秒
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