現在「偉大な大正区ものがたり」を連載していますが、学術論文ではなく、あくまで物語(フィクション)形式としています。
根拠となる資料にそった内容となるよう努力していますが引用先を省略していますし、登場人物のセリフはわかりやすくするための拙者の創造です。
大正区にかかわる先人およびその歴史が、自慢でき偉大なものであったことを、皆さんに知ってもらいたいと希望します。
予定は
第7巻「大阪府VS大阪市の戦い、大正橋架橋を決めた日本史上初のデモ行進」
第8巻以降に「工場の煙突と木津川国際飛行場の移転」「給料が支給されていたドイツ俘虜収容所」「メガバンク(巨大都市銀行)支店が三軒家にあるのはなぜ?」「世紀の土地改良事業と昭和山、千島公園の誕生」「6車線60Km道路、新大正通りの完成」などを取り上げたいと思います。
偉大な大正区物語 その2「天下の台所はみおつくしの賜物、往来安全」の巻
ここ大正区は東西に木津川と尻無川、北に岩崎運河、南に大阪湾と四方を河川に囲まれ、古くから水運の要衝であった。
京都や奈良から淀川を経て大量の土砂が木津川河口に堆積し、浅瀬にできた砂州が現在の三軒家である。
漁師の小屋が3軒あったことからその名が付けられたというが、のちに開発者の名から勘助島の名も古地図にある。
江戸中期になって、泉州踞尾村出身の北村六右衛門や東成郡千林村出身の岡嶋嘉平次、平尾与左衛門などが南側に新田を開発し、その後の泉尾や千島、小林、恩加島、平尾などの現在の町名の由来となっている。(画像1=海の時空館にて撮影)
ここで、大阪市のシンボルとなっている「みおつくし」は木津川の浅瀬にあった水路標識のことで、澪漂と表記され、その場所は画像1の左下部にある。
ちなみに南側にあるのは千本松である。
語源は・・・
「みお」=澪すなわち水脈
「つ」 =「の」の古語
「くし」=串すなわち杭
各地の名産品を満載した廻船が難破のリスクを乗り越え、無事に難波津の入口である木津川河口に達した時、船長や水夫が安堵と共に最初に眼にするのが、この「みおつくし」である。
当初は杭に2枚の板を「x」の形状に打ち付けていたが、風や波によって壊れやすく、使用に耐えなかったため、板の上部に横1枚を付け足し補強して写真の形状になったとされている。(画像2、破損するたびに建て直されている)
当時の水運は、船乗りのことわざ「板子一枚下は地獄」にあるように、常に死と隣り合わせ難破遭難のリスクがあり、危険な仕事であった。
みおつくしを目にすると、大坂に無事到着した「地獄に仏」とばかり安堵するのである。
「ふなおさーみおつくしがみえやしたぁ」
命拾いした船乗りの喜びの声が響いたに違いない。
全国から海産物や米などが集積する天下の台所は、いわば、この「みおつくし」によって座礁を避けるなど航海・往来安全が維持されたのである。
大阪市の市章となったのも必然といえよう。
画像1にあるとおり設置場所は現在の大正区南恩加島になる。
ちなみに安治川尻や江戸にも設置されたが、木津川にあるものを模倣したのであるとされている。
また、大正役所の資料によると幕府が設置したと発表しているが、江戸と違い幕府が金を出すはずが無く、大正橋東の津波石碑や新田と同じくすべて町人が費用を負担し、幕府は許可しただけと聞き及んでいる。
市章については、大正区住民のシンボルが、大阪市役所に横取りされたと考えることにしている。