朝の答え
スイッチが入る時太陽がすこしずつ昇るようにスイッチが入る外からの電話人と会って珈琲を飲んで(13日ぶりに一杯飲む)でも考えてみると愛する人や大好きな人や大好きなものからの刺激がいちばんではないか。一年ほど仕事をせずに生活したせいか今は明るい貧乏だが毎日がとても新鮮で発見が多い。ある意味長い人生1年や2年の社会からのリタイアはちょうど修業僧のようだった。正式な修行僧の1年は冬と梅雨の時期の各3ヶ月を寺に篭って生活する。残りの期間は托鉢しながら旅をする。これは理論と実際の経験をするためだ。托鉢の旅で人情を知る。この意味はとても痛いほどわかる。12月の1日から8日までは釈迦の悟りを開いた時期をちなんでの不眠無食の修行がある。釈迦は快にも幸せはなく、不快にも幸せはないと悟ったらしい。ではどんなときに幸せを感じるというのか?空とか無の心境という。これはこころを空っぽにする心境らしい。よくわからない。ぼくはこれを実感するために服を着ないで過ごすことで代償経験してみる。服を着ないと感覚が鋭くなる。家中の家具が凶器のように固い。風が肌に寒い。裸で生まれてきて裸で死ぬという意味もわかる。手を広げて指を折るとおーなんと素晴らしい動きかと感心する。あるいは目をつぶって過ごす。暗闇は恐怖だ。目を開けたときの景色のすばらしさに感動する。耳をふさいで過ごす。いずれも日常やあたりまえが新鮮に奇跡のようだ。ブルース・リーの言葉、dont think , feel だ。1年間社会から遠ざかることはそのような体験にも似る。社会が客観的らしく見える。車が走る。定時にみんな動き出す。面白くてしょうがない。反面なんと資本主義のおかしさには不自然な人間性なことかと憂う。人がなんだか物体のようにしか思えない。しかし、この社会でごはんを食べていかねばならない。釈迦は修行の後、差し入れられた女性からのスジャータを飲んだ後、悟ったという。詳しい記述はまだ不勉強だ。ただこの事柄はとても意味深い。女性、スジャータという食べ物らしきもの、この2点がキーワードのようなのだ。しかしこの1年のぼくの擬似修行はぼくの後半の人生にどういう礎となるのだろう。それはこれからの毎日の日々とそして3年後くらいに答えを見つけるのだろう。今日のタイトル改めて見たら「朝の答え」だ。朝に道を聞かば夕べに死すとも可也というがぼくはまだまだ長生きしたい。したいことがたくさんある。謙虚に、謙虚に他力を祈るしかない。