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テーマ:癌を告知された父のこと(9)
カテゴリ:まじょのこと&ダイエット
私の覚書として、親の介護、親を看取ることについて残しておきたいので記します。
「余命3カ月は、ないかもしれない」と宣告を受けたのが2018年2月初旬のこと。 実父の膀胱がんは膀胱を摘出するも、リンパ節へ転移(再発)し、脊髄にも大きな影が映っていた。 父の腰の痛みは腰痛ではなく、大きくなったガンだった。 手術後の定期検査の際に転移が見つかって、父本人も承諾したうえで「抗がん剤治療」を開始することになったのが2017年6月のこと。 膀胱を摘出する前に経験していた「抗がん剤治療」とは違って、どんな副作用がでるかわからないと言われていたけど、肺の機能が低下し、さらに貧血を起こしてしまった。 抗がん剤治療のために2回、入院を試みたが、肺の機能が回復するまでは治療を断念するしかなかった。 自宅では「在宅酸素」を使用して、なんとか生活できていたけど、好きな畑仕事もカラオケもできない。 食欲も意欲も失われ、いつも辛そうにしている父を観ているのが辛かった。 それでも、自分の家で生活できていたのはまだ幸せな時間だったのだと思う。 2017年~2018年の年末年始はギリギリ自宅で過ごしていたけれど、2月2日に熱が出て病院へ行くとそのまま入院となった。 そして、数日経ったある日、先生から「余命宣告」を受けることになるが、自宅へ帰りたいという希望を叶えるために2月24日に退院することした。 20日以上も入院していたせいで、歩行が困難となった父の為に介護用のベッドや、車椅子、ポータブルトイレ、段差をなくすプレートなどを準備した。 父は「在宅酸素」と人口膀胱の管があるので、身動きをとるのが難しい。 トイレに行きたくなった時の父の動作を確認し、何度もシュミレーションした。 車椅子やポータブルトイレの使用方法もマスターした。 私も兄も四六時中、父の側にいることができず、 訪問看護師さん、訪問リハビリの理学療法士さんも手配して、自宅での介護を試みたが、数日後に私と父の目の前で母が倒れ、病院へ救急搬送された。 救急車の中で私が何度も声を掛けたが、言葉がたどたどしくなってしまった。 検査の結果、脱水症と過労と心労がが原因で気を失ったのだと判明し、点滴をして自宅へ戻った。 が、足と耳が不自由な母には在宅での介護は精神的にも肉体的にも厳しいことがわかった。 在宅介護は介護する人が健康でなければできないと改めて実感した。 自宅で過ごす間に父の尿に「血」が混ざっていることを心配し、病院を受診することにした。もし、これで入院となれば、もう二度と自宅には帰れないのかしれないと思い、父が手入れをしていた自宅の庭を車椅子で一周回ってから病院へ向かった。 車椅子を押す兄と私、無言ながら涙が止まらなかった。 その後、病院での手厚い看護で父の容体は落ち着いていた。 もう一度退院するべきか、このまま入院するか、判断を迫られていた。 今のこの状態ならもう少し自宅で過ごせるかもしれない。 これがラストチャンスかもしれないと言われるも、在宅介護の決断ができなかった。 担当の看護師さん、ケアマネさん、母が立ち会う中で私から父へ話すことにした。 もう自宅での介護は難しい。抗がん剤治療はもうできないが、病院にいれば看護師さんが24時間ケアしてくれるので安心。父と一日でも長く会話したいし、一日でも長く生きていて欲しいから、このまま入院していて欲しいと告げた。余命宣告されたことは、結局言えなかった。 父は一言「わかった」と言ってくれた。 私の精一杯の言葉を理解してくれて、それ以上何も聞かない父。 私を困らせるような質問も、わがままを言うことなく、最後の最後まで「帰りたい」と口に出さないでいてくれた。 ②へ つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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