余命宣告された父のこと、自分の覚書として記しています。①からのつづき
苦しい決断をしてしまったことで、色々な気持ちが湧き出てくる。
できるだけ自宅で診てあげたい気持ちと母の負担を考えると無理をしたくない。
ずっと葛藤していたけれど、家族みんなが幸せに過ごせる為の英断だと思うしかなかった。
私が毎日病院へ行って父との時間をできるだけ作ろう。
最期の時まで悔いのないように過ごしたいと思うようになった。
幸いにも今の職場の人たちはとても理解があり、毎日、早退することを了承してくれた。
職場から病院へ行き父と話した後、実家で母と話してから自宅へ帰る日々・・・。
毎日病院へ行くことで看護師さんや理学療法士さん、介護士さんと顔見知りになれたのはとてもよかった。それぞれの方が父の様子や状態を教えてくれるから助かった。
終末期の患者さんが入院している病棟だったけど、亡くなる寸前までちゃんとケアしてくださったことに本当に感謝している。
父とは色々な会話ができた。
母との馴れ初めや結婚するまでの話。
父が若い頃、どんなふうに過ごしていたか。
サラリーマンから独立して自営業になったいきさつなど・・・。
まだまだ聞きたい事がたくさんあったのに!っと、今になって思うけど、その時は気づかなかった。
私が病室を出て帰る際に「また明日ね。」っと言うと、
父からは、必ず「ありがとう。」の言葉をもらっていた。
そして、父が携帯電話で「今、(私が)帰ったよ。」と、母に事前連絡📱をしてくれるのが日課だった。
その電話が4月の中旬から途絶えてしまう。電話するのもしんどかったのだろう。
5月8日(火) 母と一緒に病院へ行くと顔色もよく、とてもスッキリとした父が待っていた。
4月の後半からは日替わりで調子の良い日と悪い日があったが、この日はとても落ち着いていて、
父に缶コーヒーをすすめると1缶飲んでしまったのもびっくりだった。
5月に入ってからはほとんど食事も摂れなくなっていたが、とても穏やかに会話をして、優しい表情の父の顔を見たのはこの日が最後だった。
次の日からあまり長い会話はできなくなった。
寝返りをうまく打てないのでベットに空気を入れたマットが設置され、自動で圧力がかかるようになっていた。ずっとトイレだけは自分で行きたいと主張していたポータブルトイレが撤去された。
一日一日、父の何かが変わっているのがわかった。
5月14日(月)父がとても息苦しそうだった。
水分を採るようにすすめるも、苦しくて飲める状態ではなかった。
父が「(水は)いいよ」と意思表示したのが、私に対しての最後の言葉だった。
毎日、父を見て来たからこそ分かった。父の様子がおかしいこと。
いつもの苦しさとは違う。
看護師さんに事情を聴くと、寝たまま入れるお風呂に入ったとのこと。
久しぶりのお風呂でさっぱりしたけど、お湯の圧力が体力を消耗させたようだった。
いつものように「また明日来るね。」と言い残し、後ろ髪をひかれる思いで病院を後にした。
父から「ありがとう。」の言葉は、数日前からなくなっていた。
5月15日(火)朝6時過ぎに病院の看護師さんから電話がきた。
父の意識がなく、とても荒い苦しい息をしていると・・・
病院へ行くと、モニターが設置され今までとは違う風景の病室。昨日とも違う父がいた。
私が声をかけても目を開けることもなく、ただただ苦しい息遣いをしていた。
担当の看護師さんからもう長くはないかもしれないと告げられたが、父は頑張った。
会わせたい人、全員を会わせることができた。
5月16日(水) 看護師さんがありとあらゆることをしてくださった。
私と兄が手を握りしめて、今にも止まりそうな息遣いを見守る中・・・
苦しむことなく、顔をゆがめることなく、最後の息は静かに止まった。
「お父さんお疲れ様。頑張ったね。」と声をかけた。
今まで幾度となく入退院を繰り返し、手術を何度も経験している父は心も身体も強かった。
弱音を吐かない父。
わがままを言わない父。
最後まで尊厳を保とうとする父。
昭和の時代を生きて、職人として、腕一本で頑張ってきた人だから不器用で照れくさくて母に対して本当の気持ちを伝えられなかったと思うけど、私は十分わかっている。
父が最後まで心配でしかたなかったのは、私でも兄でもなく母の事。
母のことをいつも気にかけていた。
この世に心残りがあるとしたら「母のこと」だけだと思う。
③へつづく