4582252 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ルーマニアックス

ルーマニアックス

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

ハンニバルQ

ハンニバルQ

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

ハピネスチャージプ… New! 武来神さん

UFOキャッチャー フ… ミスランディルさん
Junky Junction 二木らうださん

コメント新着

フリーページ

ニューストピックス

2019年11月02日
XML
カテゴリ:風景・旅行など
​​​​​​
​​
​太宰府天満宮​
太宰府駅です、最近駅舎が新しくなりました。それにしてもすごい人…

太宰府天満宮表参道店
有名建築家「隈研吾氏」が設計で日本のみならず世界的にも有名、その為か大抵並んでいる事が多いくて一度も中へは入った事はありません。
入り口にわんこがフレンチブルとフィールド・スパニエル?前の人はご主人様でしょうか?
実は神社仏閣などでは何かしらの動物に会うと良い事があるらしい?そもそも参道は散歩コースとしては良い所だ。
令和カラーになってますね、少し前まではすごく外国人が多かったですが…
御神牛像、中国人観光客がたむろしていました。もしかしてインスタスポットでしょうか?、途中でアイムソーリー言いながら”どいてよ”ジェスチャーされましたが。あと、手水舎もスポットみたいで柄杓を持ってポーズした写真…神仏なんて無いのでそんなものでしょう、恐らく神様も何もせずほっておいている様子。なんてたって観光地、海外でも宗教施設の観光地の割合はかなり多いですし、他も同様。
”御神牛像の頭を撫でることで知恵を授かる、自分の怪我や病気がある場所を撫でると快復すると言われ、信仰の対象となってきました。学業の神様である菅原道真公の頭の良さを少しでも分けていただきたいという思いからか牛の頭部分は撫でられて過ぎて金色に輝いています。”




ここにも御神牛像が、牛の像のことを「御神牛」(ごしんぎゅう)と読みます。
由来
菅原道真公が59歳の春に亡くなられたとき、亡骸を乗せた牛車が都府楼の北東(うしとら)の方向へ向かって進んでいたところ、牛車を引く牛が動かなくなりました。それを道真公の御心によるものだとして、牛車の止まったところ、当時の四堂のほとりに御遺骸を葬ったそうです。人々は道真公を慕い、お墓の上にお社を建てました。これが現在の大宰府天満宮のはじまりと伝えられています。また、道真公は、承和12年(845)乙丑(きのとうし)の歳の生まれであること、亡くなった日も903年(延喜三年)2月25日の丑の日だったことも由来と言われています。太宰府天満宮の境内には、他にも10体の御神牛像が祀られています。観光案内書のパンフレットにも御神牛像は全部で11頭と紹介されています。(太宰府天満宮ドットコムより、)

上の龍は青森のねぶだ、10月18日(10月1日~31日:大祭期間)と期間限定でした。
”「学問の神様」として広くご崇敬されている天神さま 菅原道真公は、幼少の頃より勉学に励まれ、元年(877年)10月18日、33歳の若さにして、学者として最高の位であった文章博士になられました。このことにちなみ、10月18日に「特別受験合格祈願大祭」が御本殿にて斎行されます。学業における大きな成果を上げられ、受験合格の目標を達成されますよう祈願いたします。
「特別受験合格祈願大祭」期間とし、登龍門の伝説にならい「飛龍天神ねぶた」を楼門に掲げています。乗り越えなければならない難関を見事突破できますよう、それぞれのお願いごとを込めてお通りになり、ご参拝ください。また、大祭期間中に受験合格祈願をお申し込みになられた方には、下記の期間限定のお札・お守り・絵馬・掛け襟を授与いたします。(公式HPより、)”
菅原家の先祖は、出雲臣の祖神とされた天穂日命で、野見宿禰の子孫の土師氏、そう、蘇我氏も子孫の一つ、他にも波多氏、紀氏、平群氏が野見宿禰が祖と言われています。桓武天皇の御代に菅原の姓を名のるようになったとか。一部は歴代天皇ゆっくり解説から抜粋して書きました、まだ飛鳥時代ですが今後菅原道真公も登場してくるでしょう。
太宰府天満宮とは、
右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した。その死後、道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。
それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去した。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになった。 寛弘元年(1004年)、一条天皇が初めて北野天満宮へ行幸されて、太宰府へも勅使をつかわせて以来、士庶の崇敬を広く集め、とくに承徳元年(1097年)、大江匡房が太宰権帥に任ぜられてからは神幸祭など、祭祀がおごそかになったという。(ウィキペディアより。)
確かに菅原道真公は京都に帰りたかったのは確かですが、怨霊になったかどうかは何とも言えません。菅原道真公は当時京の人々にかなり人気でした、誰が何をしたという噂が立たない事は無い、追い詰めた側の方が精神的に自滅したのではないのかと自分は思っております。清涼殿落雷事件はたまたま起こった事故、それが更に生き残った者が大袈裟に伝えた。だからこそ怨霊伝説に拍車をかけた事は言うまでもありません。当時は避雷針置いてなかったので建物の落雷を避けられなかった、色々な意味を複合して物理的に祟りは存在するかもしれません。菅原道真公はその為か雷神とされてますが。
※余談ですが、もしかすると怨霊とは貧富の格差でどうにもならならない人々にとってスーパーヒーローだったかもしれません。
理由は色々ありますが、元は怨霊を鎮めるための神社、それから学問の神様という変遷を経てアジアから観光客の観光地になり、更に令和特需で全国からもお参りに。
中島神社
ここは…異世界ですか?
相輪樘
仏教の塔の形式の一つ、日本に八基しかないらしいとの事。元々太宰府天満宮も神仏習合だったのでしょうか?
※余談ですが、仏様と神様同じようで違うところは、仏様は人につきますが、神様はその土地につくとか元々八百万の神々は自然、仏様は人、人につく神様はよくよく、YouTubeの動画でそう聞きました。まあ、これは信じるか信じないかですが、スピリチュアル系のほぼほぼ8割強以上はガセ、が、時々ごく稀に本物もあるのとおもいます。正、その中からピンからキリまでありますが。
そもそも、霊感が強すぎる人はYouTubeやSNSに出さない。
ちなみに、神様の数え方は”柱”、最近は鬼滅の刃の最強の鬼殺隊員を”柱”言いますが、その理由は、家の中の柱の列立する様子に例えたとか。なお、昔は、高貴の人を数え奉る時にも用いた。まさに最強を表すに相応しい。
菅原道真公の様な英霊、菅原道真公の様に人物が神格化したのはどうでしょうか? はたして土地につくのか? それならばその御霊は太宰府ではなく京都におられるかもしれません。それは北野八幡宮?、いえ、いえ、菅大臣神社(菅家邸址)におられるのでは。
何度も太宰府天満宮に訪れては来てますが、ここは初めて。
素佐雄社
※ひっぱる他は全く別物、姉神様を含め最初から無かったものとして”僕達の事をよく分かって無いからしょうがないな、”と見てます。
………誰もいないと言いますが、しっとりとしていて静かですね。
皇太神宮
※ただ、”私達は関心は​持ってませんが、あまり放っておくと何もしないと舐めてしまうので、少しだけ正しておかないといけない”と思っている様子。
…隠れたパワースポットでしょうか?
天穂日命社
どうやら太宰府天満宮の末社に入り込んだようだ。※よく見ると階段の方に光が…
天穂日命(あめのほひのみこと)
天照大神と素戔嗚尊が誓約をした際に生まれた五男神の一神。葦原中国に高天原から派遣されたが復命せず,のちに大国主神の祭主を命じられたという。出雲氏、土師氏らの祖先神。「古事記」では天菩比命。 (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
菅原道真公のご先祖様でした。
ここは本当に異世界のようだった。
​天開稲荷社​
天開稲荷社は九州で初めてできた稲荷神社。
天開稲荷社は、鎌倉末期に京都の伏見稲荷大社から御分霊を御遷したお社だそうです。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)スサノオの子供にあたります。宇迦之御魂神は、すべての人々の命の根源である食物、特に稲の成長を守護する神様です。天に開かれたお社とされ、五穀豊穣、商売繁盛、そして人々に開運と幸福をもたらす神様なのです。天開稲荷社は九州で初めて造られた稲荷神社として有名です。そのご利益とは「五穀豊穣」と「開運」「商業繁盛」です。会社を営んでいる方や農業に従事されている方、これから会社などを興して頑張っていきたい方に御利益のある神社ですが、一番の御利益は「開運」です。太宰府天満宮は大勢の参拝客で賑わっていますが、天開稲荷社はあまり人がいません。ゆっくりと宇迦之御魂神に開運をお願いすることが出来ます。実際に天開稲荷社へ参拝した後に会社や商売がいい方向へ向かったという事が多いそうです。

天開稲荷への道はひたすら急な石段が続きます、登るのに5分~10分くらい。異世界に入った事もあって時間が限られていた事から急ぎ足で、普段運動していない分エクストリームで石段を登るのは結構きついです。

2019年10月 太宰府天満宮 天開稲荷社でした。​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年11月13日 20時53分30秒
コメント(0) | コメントを書く
[風景・旅行など] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X