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2020年01月27日
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カテゴリ:風景・旅行など
筥崎宮 雉琴神社
香椎宮 古宮跡
「古宮跡」とは、香椎宮起源の地です。西暦199年、仲哀天皇と神功皇后は熊襲を征伐するため、筑紫に来てここに仮の皇居「橿日宮」(かしひのみや)をつくられました。
棺掛椎(かんかけのしい)
仲哀天皇の棺を立て掛けた「棺掛椎(かんかけのしい)」神功皇后が三韓よりご帰還され植えたとされる香椎宮の御神木 綾杉はあんなに大きく育っているのに、それより以前に棺を掛けたとされる「棺掛椎」はとても細い小さな御神木でした。
仲哀天皇大本営御旧蹟
熊襲征伐の途中、神様から「朝鮮半島の新羅を平定せよ!」とお告げを受けましたが、仲哀天皇は受けれなかった為、神様の怒りにふれ急死してしまいます。神功皇后は、仲哀天皇の棺をご神木である「大槇木(おおまきのき)」で作らせ、椎の木に立てかけました。すると椎の木のあたりから香ばしい香りがあたり一面に漂ったと言われています。これが「香椎」の名前の由来になっています。

お宮のほうは結構人がいたのですが、古宮跡は誰も居ない、仲哀天皇の御霊を祭る香椎廟と呼ばれいたとか。
扇塚
神功皇后が朝鮮半島出征中、蝙蝠(コウモリ)の羽を見て、その形から扇を作った…博多民踊協会が壊れた扇子を供養したい…この二つの話をうまく結びつけ、香椎宮に「扇塚」建立しました。 
軍艦香椎顕彰碑
​​​​​​​​​​軍艦香椎は、練習巡洋艦として姉妹艦香取、鹿島に次いて昭和十五年七月十五日、三菱重工横浜造船所にて竣工した。初代艦長岩渕三次大佐・香椎宮に詣で、御分身を請願され、守護神として奉載し就役す。既に時局は急を告げ、旗艦として直ちに南部仏印に進駐の陸軍部隊を護衛し、サイゴンに進出す。大東亜戦争開始に当り、我が国の運命を屠して敢行せる  山下奉文将軍麾下第二十五軍の大部隊の船団を護衛し  タイ国シンゴラ  コタバル等の上陸作戦を支援し、シンガポール攻略の端緒を開く。以後全作戦の支援を主任務とし、南支那海は勿論西は印度洋、東は遠くラバウルに至る広大なる海域を、総航程一万五千浬に及ぶ作戦行動に従事す。昭和二十年一月十二日、第一〇一戦隊の旗艦として、航空燃料などの強行輸送船団を護衛し航行中、仏印キノン沖で、敵機動艦隊の艦載機延三〇〇有余の執拗な攻撃を受け、克く奮戦激闘したが、被害累積し十隻の船団悉く撃沈され、「最後に香椎は魚雷二本、中部及び後部に命中」艦は一瞬にして棒立ちとなるも、機銃は尚も応戦、司令官渋谷紫郎 少将 艦長松村翠大佐以下死闘後遂に力尽きて、艦と運命を共にせし者 便乗者を含め一千余名、生存者は兵員僅か十七名に過ぎず。その死しても止まざる殉国の気魂は、米軍をして心胆を寒からしめ、深く感銘を与え敢えて戦史の記録に持筆せしむ。想うに、かくの如き勇猛果敢にして従容として死地に赴いた崇高なる精神は光栄ある我が海軍の精華にして永く歴史に躍動するであろう。ここに、軍艦香椎の顕彰の碑を建立し艦と共に短い生涯を閉じた英霊の勇戦労苦を偲ひ、祖国日本の興隆を祈念する。昭和五十六年五月十日 軍艦香椎会

練習巡洋艦 香椎は香取型練習巡洋艦の3番艦です。
艦歴
昭和16年7月15日 竣工(三菱横浜造船所)
昭和16年7月31日 南遣艦隊旗艦となり東南アジアへ進出
・太平洋戦争開戦後はマレー上陸作戦の護衛任務など南方攻略作戦に参加
・その後は一時練習艦
昭和19年5月 3日 海上護衛総隊に編入、船団護衛及び対潜掃討任務
昭和20年1月12日 仏印キノン湾沖で米軍機の攻撃により沈没
昭和20年3月20日 除籍
香椎参道Nanの木

筥崎宮
筥崎宮の由緒
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。
鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。(筥崎宮公式HPより、)
主祭神
応神天皇(八幡大神)
配祀神
神功皇后(応神天皇の母君)
玉依姫命(海の神・神武天皇の母君)
楼門(国指定重要文化財)
文禄3年(1594)筑前領主小早川隆景が建立、三間一戸入母屋造(さんけんいっこいりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)、建坪はわずか12坪であるが、三手先組(みてさきぐみ)といわれる枡組によって支えられた、83坪余りの雄大な屋根を有した豪壮な建物です。「敵国降伏」の扁額(へんがく)を掲げていることから伏敵門とも呼ばれています。扉の太閤桐の紋様彫刻は江戸時代の名匠左甚五郎の作と伝わります。(公式HPより)
湧出石
この石に触れると運が湧き出るといわれており、運気アップ、招福開運を願って多くの参拝者が触れていかれます。また、この石には古くから、「国に一大事があるとき、地上に姿を現す」との言い伝えがあります。 (公式HPより)
手を伸ばして何とか届くかぐらいですね、


冬ぼたんまつり
今回は貸し切り中で入れませんでしたが、
雉琴神社
香椎宮や筥崎宮に行く少し前に雉琴神社に立ち寄ったのご紹介します。
雉琴神社
祭神 日本武命(倭建命)祭日 9月23日
日本武命は第12代景行天皇の第2皇子として生まれ、性勇猛果敢、父天皇に命ぜられ、東方12ヶ国の荒ぶる神たち、従わざる者たちを討たんとして、相模の国に至り、国造にだまされて野原に入り、火をかけられ、焼打ちにあわれ給うが火打石・草薙剣により、逆火をつけ給い、辛うじて難を逃れ給う。(火焼、やけどの神)
昔神功皇后、高祖より御坂(三坂)を経て雷山に登り給い、層々岐岳にて天神地祇を祀り、戦勝を祈り給う後、山を(嵯峨里)給い此処に宿陣したまう夜、夢枕に日本武命(やまとたけるのみこと)が立たれ、賊徒討伐の法を教えられたという。
雉子(きじ)の鳴く声を琴の音に聞きて目覚められ、帰還の後、日本武命を祀り雉琴神社と崇(あが)め奉り、ここを雉琴を名付けられた。(古事記、神社縁起による)
祭神 日本武尊
仲哀天皇の父とされる日本武尊がお祀りされておりました。
社伝によると神功皇后がこのあたりに陣を敷いたら日本武尊が夢枕に現れたとか。
しかし、日本武尊がご祭神の神社は初めてですし、あまり見た事が無い。北九州には多くあるようですが、探せばあるのですね…
他の田舎の神社と同じくひっそりと佇んでおります。
八幡大神 応神天皇の祖父が日本武尊、父が仲哀天皇、ここは諸説ありですが、気のせいか、日本武尊(雉琴神社)、仲哀天皇(香椎宮)、お応神天皇(筥崎宮)の順番でお参りしたのは何かのご縁を感じてしょうがないのです。
筥崎宮 雉琴神社でした。​​​​​





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最終更新日  2020年01月28日 21時09分43秒
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