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2021年02月27日
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ゆかりひろし
です。ゆかり、ひろし何のこと?
ひろし…!!!
ヒロシです…。
「知らん男が1人」
三島食品のふりかけ、ゆかり、あかり、かおり、うめこ、ネーミングセンスが微妙…
新宅さんが「「ひろし」は2月1日に当社の新商品として発売されたばかりです。日本三大菜漬の一つである広島県産の「広島菜」を 100%使用しております。温かいご飯はもちろんのこと、冷めたご飯にかけても青菜の風味をおいしくいただけますよ。」との事。
ヒロシは最近ぼっちキャンプで人気を得ています。一人キャンプは流行りですが、ゴミや火の始末はちゃんとしてください、ヘタすると環境汚染にも火事にもなります。

らんあーと、スーサちゃん?あまりにも可愛くて、”くま クマ 熊 ベアー”???、読んだことは無いですがアニメは知っている。少女がクマの着ぐるみ着たヤツーーーこのキャラ ユーナがインパクトが強すぎて、異世界転生モノとは思わなかった。…と思ったら違っていた様だ。らんちゃん、イラストレーターふうすけ氏のキャラクターの様です。

2020年2月27日の満月はスノームーンと呼ばれているそうです。
別名、 飢餓月とも、 だからお腹空くらしい…食欲はいつも通りですが。


​第6回 八幡神 神功皇后について、
今回は第6回目になります、今回は神功皇后についてお話します。ただ、少しリンクが多くなってきたので、前回紹介しました5回目 神社の鳥居についてをリンクさせておきます。

神功皇后は、過去に何度も書いてまいりました。
天照大御神や大国主神、日本武尊といった神々?と同様の有名な方です、ただ、あまり語れることが少ない。主に八幡神と呼ばれる神様です、というよりもその母親、北部九州では神功皇后のゆかりの地が多く、宮地嶽神社、香椎宮、箱崎宮等のご祭神で、直接ご祭神でなくとも何らかの関りのある神社も。そこで今回は神功皇后と八幡神について紹介します。八幡社は全国44,000社あり稲荷神社次いで数が多いといわれています、…いや、それ以上だろ、その総本宮は宇佐八幡宮、大分県宇佐市にある神社。しかし、八幡神は最も日本人がよく分からない神様でもあります。それは、八幡信仰は元寇をきっかけに盛んになり、武人の神として戦国武将など多くに慕われていました。やがて江戸時代になり平和になるにつれて、商売繁盛の稲荷神の方が祀られる事が多くなり、稲荷神社と八幡神社よくお祀りされるようになりました。それから、内田康夫の浅見光彦シリーズの”はちまん”で語られたように先のあの大戦で利用されてきた事もあり複雑な背景があります。

香椎宮
八幡さまについて、
八幡様は戦前までは武神として崇められていました。戦後から平和観念が浸透していくなかで、教育や縁結びなど日常生活に根ざした諸願成就の神へと変化していきました。
八幡様を祀る全国の八幡系の神社は、三万とも四万とも言われており、分詞の数の多さでは稲荷社についで第二位です。日本文化の基礎を築き、八幡信仰の祭神として「八幡さま」で親しまれるこの神様は、日本全国どこへ行っても出会える神様です。
源氏の守護神となり人気に
​中世以降、八幡信仰は発祥地の宇佐八幡宮(大分県)、石清水八幡宮(京都府)、源頼朝が創祀した拡大発展拠点の鶴岡八幡宮の三社を核として全国に広がりました。武家の棟梁・源氏の守護神となったことで、各地の武士層から庶民へ浸透していきました。​
日本文化の基礎を築く
古事記などによると、八幡さま(誉田別命)は筑紫国(福岡県)で生まれ、大和に戻り母の神功皇后の摂政のもと皇太子となり、皇后の死後に第十五代天皇に即位。四十一年の治世には、百済からの3人の帰化人を受け入れたり、中国の文芸や工芸を積極的に導入するなど、優れた治世を行ったとされ、日本の文化の基礎を築いたそうです。
応神天皇は歴史的に最初の天皇とされる考えがあり、その治世は学問的にも日本の歴史時代の始まりと言われています。実は「応神」とは死後の諡号(贈り名)で、通称として使われていますが、祭神名の多くは生前の名である誉田別命(ほんだわけのみこと)で祀られています。
八幡信仰の源流は古くから母子神信仰だったと考えられていることから、誉田別命とともに母神の神功皇后を祀るところも多く、縁結び、子宝、安産、子育ての守護などの神さまとして人々の信仰を集めています。
八幡信仰の祭神となる
誉田別命が八幡神として信仰されるようになった経緯は明らかではない。欽明天皇の御代(539~571)に八幡神が現れたという次のような話がある
豊前国(大分県)宇佐郡の厩峰の菱潟池のほとりに、一人の用紙の奇異な鍛冶の翁が住んでいた。その翁が、金色の鷹や鳩に変じるを見たこの土地の神主で大神比義という者が、翁に仕えること三年。ある日、もし神なら私の前に姿を現してくださいと祈ると、翁は三歳の童子に姿を変えて竹の葉の上に立ち、「われは十五代の応神天皇であり、護国霊験威身神大自在王菩薩なり」と名乗ったという。歴史上では、応神天皇期は四世紀末にあたり、朝鮮半島進出や東国平定など大和朝廷が大いに発展した時代である。そうした時代的な状況のなかで、八幡神と誉田別命が結びついたのだろうと定説になっている。(日本の神様がよく分る本より)

だから八幡のシンボルは鳩、八幡の”八”の字が鳩になっています。後、八幡宮を移動させる際に、鳩が道案内をしたという歴史があります。宇佐八幡宮といえば、道鏡事件が有名。ざっくり言うと、奈良時代、称徳天皇の治世”道鏡”による天皇即位未遂事件の事。和気清麻呂がそれを未然に防いだのですが…
ただ、近年似たような事があってるような気がしないでもないですが…
筥崎宮

神功皇后​​
別称:息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、息長帯比売命、聖母大菩薩
神格:聖母神、武芸の神
​実在の古代の女帝が伝説のモデル?​
神功皇后は『古事記』ではオキナガタラシヒメ命という名で記され、神社ではその名で祀られることが多いです。オキナガとは地名(近江国坂田郡息長)とも長寿の意味とも言われ、タラシは尊称でこの語を名にもつ天皇も多いそうです。
第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后で、八幡神として祀られる第十五代応神天皇の母である神功皇后。
神話伝承における活躍を見てみると、女神でありながら武神としての性格を持ち、民俗的な母子神信仰とも深く関係し、鎌倉時代には神仏習合的な女神として聖母大菩薩とも呼ばれました。その神威は八幡信仰や住吉信仰とともに全国的に広まりました。
ところで、神功皇后は、戦前までは実際の歴史上の人物という考えられていました。しかし、戦後になってからは研究が進み、今日では実在の人物をモデルにした伝説上の人物であるという説が定まっています。七~八世紀に皇位についた推古・斉明(皇極)・持統の三人の女帝がモデルとされています。神功皇后については、『古事記』では仲哀記、日本書紀では神功皇后のなかで、伝説として詳しく語られています。
​聖母神的性格を物語る鎮懐石伝承​
神功皇后の聖母的性格を表すのが鎮懐石(ちんかいせき)の伝承です。それによると、新羅遠征中に産気づいた神功皇后は、卵型の美しい石を2つ腰のところに付けてまじないとし、出産を遅らせることを願いました。そうして、筑紫国(福岡県)に凱旋してから無事に出産しました。
呪術的な方法で出産をコントロールし、妊娠から出産まで十五ヶ月間もかかる異常さは、生まれるのが神の子であることを暗示するものです。
この鎮懐石伝承と神功皇后の聖母的性格のベースとなっているのは古来、九州地方に広がっていた「神母(じんも)」や「聖母(しょうも)」と呼ばれる土俗的な母子神信仰であるという説が有力で、現在でも聖母神としての皇后の伝承が各地に残っています。
​呪術的な霊威力を備えた巫女​
神功皇后の武神としての性格や、呪術的行為を示す姿が描かれているのが新羅遠征伝説です。夫の仲哀天皇が九州の熊襲族を討伐しようとした時、神功皇后が神懸りして神の託宣を受けました。
すると、神は「西方に金銀財宝の豊かの国がある。それを服属させて与えよ」と託宣しました。しかし、仲哀天皇が託宣を無視して熊襲討伐を優先したために、神の怒りにふれて急死。天皇を※殯宮(殯とは高貴な人が亡くなった時に本葬の前に仮の葬儀をすること、またはその場所)に納め、大祓を行ったのち、再び神意を問うと「この国は皇后の御腹に宿る御子が治めるべし」という託宣がありました。
その神の名を問うと「天神の意思を伝える住吉の三前大神(住吉三神)である」と名乗ったそうです。
その神意に従い皇后は、住吉三神の守護を受けて軍船で玄界灘を渡り、新羅国を平定。大和に戻った皇后は、仲哀天皇のほかの二人の王子(天皇とオオナカツヒメ命との間の子で香坂王と忍熊王)の反乱を鎮め、応神天皇を皇太子に立てて、自ら摂政をおこなったとされます。
​聖母神・母子神として信仰される​
『日本書紀』の神功皇后の話に魏志倭人伝の卑弥呼の話があったり、伝説に描かれる姿から卑弥呼とイメージを重ねられたりもします。
今では聖母神、母子神として信仰される神功皇后ですが、戦前ではお札の肖像が描かれたり、武の一面が恣意的に誇張され、軍国主義制作の精神的な支えとして利用されたこともあるそうです。神功皇后に関する歴史的な事実として記憶しておくのも大事かもしれません。
ご利益:安産、子育て守護、学業祈願、厄除け、病魔退散、家内安全、開運招福(日本の神様がよく分る本より)

少し書き忘れていました。この後の話とよく似ていると思います、
三人の実在の女帝がモデルでも、卑弥呼ではないと思う。九州に大和朝廷違う九州王朝があったとも、九州王朝と大和朝廷、それから蝦夷地と呼ばれる関東や東北も別の国だったとも、大和より遠い場所を常世の国や根の国とも言っていましたし、だから、熊野も出雲も当時は遠い国だった。
後、神功皇后は朝鮮遠征に赴いた時、居ない事を良い事に大和では香坂王と忍熊王といった抵抗勢力が拡大していきました、そこで皇后と皇子の”訃報”の偽情報を流し罠を仕掛け抵抗勢力を倒した神功皇后、詳しくは、神功皇后​、​応神天皇こちらご覧ください。

宮地嶽神社

ここからは忖度なく書きますが”白村江の戦い”や記紀が編纂された当時の時代背景も加味してると思ってください。

神功皇后とは、
亡き天皇に代わり海外遠征を成し遂げた皇宮
神の助けを受け朝鮮遠征
日本の皇后のなかで、もっともエネルギッシュで、男顔負け活躍をしたのが、神功皇后である。第十四代仲哀天皇の皇后で、「記紀」では神懸かりとなって神託をもたらすなど、巫女の性格を持った女性として描かれている。
仲哀天皇の熊襲遠征に同行した皇后は、軍議の場で神懸かりとりなる。ここで皇后が発した神託は、「東方に金銀財宝に満ちた豊かな国がある。これを与えよう」というもので、新羅遠征を促すものであった。ところが天皇はこれを信じなかったばかりか、神を偽者と断じたため、神の怒りにふれ没してしまった。
神功皇后が再神意を問うべく神懸かりとなると、「皇后のお腹に宿る子がこの国を治めるよ」と言い、その神は住吉の三前大神であると名乗った。この神は伊弉諾尊の禊によって生まれた。
そこで皇后は住吉三神を守り神としてと朝鮮半島の新羅へ渡航した。新羅の国王は、神の助けを得た皇后の船団を見て恐れをなして服従し、隣国の百済もこれに倣った。こうして朝鮮半島遠征は成功裏に終わる。
この新羅遠征については、朝鮮半島や中国の資料に記述がないことから、史実でないという説が有力である。ただし、四世紀に刻まれた高句麗の好太王碑に倭の軍勢が百済と新羅を下したという内容が記されており、当時の日本人による積極的な朝鮮進出が行われた様子がうかがえる。
神功皇后の伝説の背景とは?
朝鮮遠征の帰路、皇后はにわかに産気づいたが、ふたつの石を腰につけて出産を遅らせ、筑紫に凱旋してから出産した。この子が誉田別命、のちの第十五代応神天皇である。
したがって、皇后には皇子を出産して偉大な皇帝を育てる聖母神としての役割もあった。これが九州地方に伝わる「神母」「聖母」という土俗的な母子信仰につながっているという。かつて出産を遅らせた石は鎮懐石八幡宮に祀られ、また、九州北部各地には神功皇后にまつわる占いの伝説がある。
では、そもそも神功皇后は実在の人物なのか。戦前までは実在したという説が主だったが、現在では、研究により実在の女帝・推古、斉明、持統の三人をモデルにした伝説上の人物という説が強い。
​​この三人の女帝先述の朝鮮進出の記憶から、神功皇后の伝説生まれたかもしれない。
日本書紀 編纂者が見た神功皇后の正体
神功皇后はたびたび神が憑依し神意を口にする巫女として描かれている。同時に仲哀天皇崩御後は我が国の最高権力者の地位にあった。
この神功皇后の姿から、自ずと思い浮かんでくる女性がいるだろう。そう邪馬台国の女王・卑弥呼である。
「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼だと解釈し、「魏志」倭人伝を三カ所にわったている。「日本書紀」の編纂者は、卑弥呼の生存年代と神功皇后の生存年代がおおよそ同じであると算出し、卑弥呼も呪術・祭祀を司る巫女であったことから、同一人物と考えたようだ。(「日本神話」の謎を楽しむ本より、)

※最後に、
三韓征伐(さんかんせいばつ)とは、
神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。『日本書紀』では新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。『古事記』では新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記されず、「三韓」の語も現れない。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。(ウィキペディアより、)
​​

あと、神功皇后は日本のジャンヌダルクとも呼ばれています。
何故、八幡神があれだけ有名なのにあまり知られていない事を察しがつくと思います、微妙な問題。箱崎宮はオラオラ系の扁額を掲げているし、勿論当時は全く違う意味で、元寇から国を守るためでしたが、ゴーストオブツシマが注目されたので、こういう事にも少しずつ目を向けて行くわけにはいかないか、白村江の戦いで倭軍は大敗している…そのためか、中大兄皇子(後の天智天皇)はしばらく引きこもり(即位せず政務に当たった。実は防塁を作っていたとか。)、天皇が統治しない時期があったとか、斉明天皇が筑紫で疫病で病死した時から嫌な予感がしなかったのだろうか、中大兄皇子の母という事は年齢も年齢だし。しかし、多大な影響を与えた事は間違いない様です。しかし、神功皇后が伝説の人物だとして、白村江の戦いが事実という事を考えなくてはいけないと思う。当時の政治的背景が色々ある、元寇も然り。
ちなみに、神功皇后が出産を遅らせ為に乗せた石が鎮懐石(ちんかいせき)、実際にこの石を祀る鎮懐石八幡宮、糸島市(福岡県)にあります。
後、松尾大社の月読神社 月延石、身重だった神功皇后は月神の託宣を受けて、神石をもって腹を撫で、 無事に男児(後の応神天皇)をお産みになったという。その名も月延石、また鎮懐石とも。神功皇后の伝説と、“月のもの”が延びるという名前から、安産のご利益があるとされています。元々3つあったようですが現在は一つだけ確認されています。​​​​​​​​​​​

第6回 八幡神 神功皇后についてでした。





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最終更新日  2024年01月20日 20時33分51秒
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