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2021年05月05日
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カテゴリ:風景・旅行など
​​​​​​​​​
​叶嶽神社 遥拝所、須賀神社、高祖神社​​
へお祀りしましたのでご紹介します。
​高祖神社
民家の間を抜けて、400mほど登ったところに高祖神社の本殿横まで続く参道があります、地元の方もおられますし、道幅は狭いくて坂が急ですので来られる際はご注意ください。参道の入り口には脇には広い駐車場があります。「大鳥居」(県の有形文化財)、福岡藩四代播主黒田綱政公から寄進されたそうです
横に神楽殿がありますが、
​高祖神楽(福岡県無形民俗文化財)高祖神楽は、応仁元年、高祖城主、原田筑前守種親が、京都鎮守の大任にあたった時、戦陣の徒然に習得した「京の農神楽」を郷土に伝えられたものとされています。 江戸時代までは神職の奉仕で、明治以後は氏子の人達によって、毎年2回、4月26日と10月25日に、この神楽殿で舞われています。(糸島のみどろこ、食べどころ観光ガイドより、)​
ご祭神:彦火火出見尊、相殿 左座:玉依姫命、右座:息長足姫命(神功皇后)
をお祀りしています。
祭神について 高祖神社は『日本三代実録』に見える「高礒比咩神(高磯比咩神)」に比定されており、現在は見られないこの神を巡って、これまでに諸説が挙げられている。 一説には、新羅渡来のアメノヒボコ(天日槍/天之日矛/天日桙)伝説と関連づけられ、特に高礒比咩神はその妻神に比定される。その根拠として、長野宇美八幡宮(糸島市川付)の社伝に関連伝承が見えるほか、『筑前国風土記』逸文では怡土県主祖の五十迹手は日桙の末裔と見える点、『筑陽記』では高祖を怡土県主の本貫地とする所伝が見える点、『日本書紀』の渡来系伝承で「伊都都比古」という人物名が見える点が関連づけられる。 また別説として、『和名抄』では筑前国怡土郡に託杜郷(たこそごう、託社郷)が見えるほか、「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」や『東大寺文書』では当地で宅蘇氏(たくそうじ)一族の居住が知られ、現在残る棟札にも「詫祖大菩薩」の記載が見えることから、これらと「高祖」・「高礒(高磯)」が関連づけられる。宅蘇氏は詳らかでないが、「戸籍断簡」には「宅蘇吉志」として新羅官位由来の姓である吉士(吉志)を称して見えることから、渡来系氏族とも推測される。 以上のほか、祭神に彦火々出見命(皇室祖先)を祀ることから「高祖」と名付けられたとする説(九州軍記)や、「タラシ」の音から息長足姫命(神功皇后)を高礒比咩神に比定する説もある。(ウィキペディアより、)
天日槍命は渡来の神様で、妻を追いかけて来日して来たとされています、元妻には会えなかった上に祖国に帰れなかったですが、現地の方と結婚しました。その孫が息長足姫命、そう、神功皇后ですね。前​マーメード・ミク​の時に少しだけ紹介した與止日女命は神武天皇の祖母、豊玉姫ともされていますが、阿加流比売神という説も、つまり、逃げた奥さん…何があったのかは調べてみて下さい。
拝殿は、享保16年(1731年)に建立されています。高祖神社の本殿は、永正四年(1507年)当時の高祖城主原田興種公によって現在地へ遷宮されたそうです。 その後、改宗を続け、寛文2年(1662年)に福岡藩三代藩主黒田光之公によって再建されているそうです。現存する本殿は、三間社流造の桧皮葺で、約350年前の姿をほとんど留めているので、 福岡県下でも極めて貴重な建造物らしいです。(糸島のみどろこ、食べどころ観光ガイドより、)
​徳満神社​
ご祭神:大名持神、少彦名神、保食神
高祖神社の境内神社として、徳満宮があります。後から知った事ですが、昔から牛馬の神様として崇められているそうです。「ペットの守り神」として案内されてあります。 拝殿奥の木橋もあります。
​八雲神社​
こちらは叶嶽神社の途中にある八雲神社、
ご祭神:素盞鳴命、櫛稲田姫命、大己貴命
明治年間(1868~1912)に村内の4社から6神を合祀し、現在9神を祀っている。市指定の有形民俗文化財の若武者絵馬は、黒田藩四代藩・主綱政が、元禄14年(1701)に青木神社(祇園社)へ奉納したもので、筑前御用絵師の重鎮・狩野昌運の筆によるもの。元旦には獅子舞(市指定無形民俗文化財)が奉納される。(福岡シティガイド ヨカナビより、)
​一の宮神社​
ご祭神:鸕鷀草葺不合尊、玉依姫命、豊玉姫命、大山積神、木花咲耶姫神
元々は青木・上の原の産土神として祀られていました。 
八雲とは、多くの雲がたちのぼる意で、「出雲」の地名起源、土地讚美のほめことばです。
​叶嶽神社​
いよいよ、叶嶽神社ですが、今回は叶嶽神社 遥拝所まで行きたいと思います。
本殿の方は叶嶽はそれ程高くない山ですが、本殿までは40分程の登山が必要なので次回紹介したいと思います。
まるで天国への階段の様な…ツツジが綺麗な時期でした。
なんだか異世界の様な感じがします。
パワースポット一人旅でご紹介して欲しいですが、かなり知る人ぞ知る場所、パワースポット一人旅でも全国の知る人ぞ知る場所も紹介いたしますが、流石にマイナー過ぎて、というか、最近知ったばかり。遥拝所迄でもなかなか過酷な登山になりそう。しかし、昼過ぎでも結構数の登山者がいました。
​叶嶽神社 遥拝所​
遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所のことです。叶嶽神社はその本殿が山頂にあるため、そこまで登って参拝するのが困難なために昔この遙拝所が設けられました。(公式HPより、)
​古文書(貝原益軒編 筑前国統風土記など)によれば、「往昔、山の名を天狗山と申しけるが、神功皇后、三韓進出のみきり、この所に御心願あらせし給ひしに御心に叶ひけりとて、山の名を変えて叶嶽と名付け給う」とある。 この神社の主神は、本地仏勝軍地蔵で、印度から伝承した魔神的性格を持つ地蔵の我が国における呼称である。 地蔵を祀りながら神社とは、おそらく八世紀頃から唱えられた本地垂迹説、または神社習合思想のいわば伝来の仏教信仰と、我が国古来の神祇信仰との調和をめざすものであろう。 元来、地蔵信仰とは死者の冥福を祈るものであるが、平安朝時代から専ら貴族社会に盛んとなり、中世になると勝軍地蔵の名で本来の魔神的な性格が武士の守り神となり、やがては子供など弱者救済の、そして近世以降では、庶民のあらゆる願望を叶える菩薩として尊崇を集めるのである。 この神社は、今から約六百年ほど前、熱烈な地蔵信仰で知られた将軍足利義満公の家来すじに当たる、上原の豪族吉住因幡守忠親が義満に倣い京都の愛宕権現より勝軍地蔵の分霊を勧請し奉り、建立したもので、霊験いみじみくもあらたかである。(公式HPより、)​
神社の主神は本地仏勝軍地蔵、叶嶽神社の由来は、もともとはこの山は天狗山と呼ばれて、神功皇后の時代に山の名が叶嶽と名付けられたようです。ここへ訪れると願いが叶うとされています。
遥拝所からでも景色が一望できました。
糸島地方は『魏志倭人伝』に見える伊都国の比定地で(曽根遺跡群)、古墳時代にも古墳の密集地域として知られるが、一方で渡来系氏族による製鉄遺跡も認められており、上古の祭祀の性格については古来伝統祭祀と渡来系祭祀の両面で諸説がある。(ウイキペディアより、)
ここには古代の遺跡が沢山あります。
それでは、
叶嶽神社 遥拝所、八雲神社、高祖神社でした。​​​​​​​​​





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最終更新日  2021年05月06日 21時37分16秒
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