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2021年10月02日
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カップヌードル 辛麺
決め手は風味豊かな "ぶっかけ焙煎唐辛子"
唐辛子の辛み、キムチの酸味、ニンニクの風味、みそのコクをきかせた、濃厚でクセになる味わいの旨辛スープに、「カップヌードル」史上最大量の唐辛子 "ぶっかけ焙煎唐辛子" がクセになる!(日清食品グループHPより。)

合体シリーズを先に紹介しましたが、こっちを紹介してません。そろそろ期間が終わりそうなので、個人的に辛麺系は好きなもののこれは1回限りで十分でした。相変わらず日清らしい独特のCM…

シフォンケーキ
こちらのシフォンケーキはフワフワしていて美味しいです、これはホールで600円位(税抜き)なので安い方、飾り付けすればいいですから、今やケーキは少し良いものなら800円以上、どうなっている事やら、コンビニなら300円前後でほぼ変わらないクオリティー。


櫻井神社
ご祭神:神直日神(かむなおひのかみ)・大直日神(おおなおひのかみ)・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)
櫻井大神宮
ご祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)豊受大御神(とようけのおおみかみ)

黒田忠之公が櫻井神社創建前の寛永二年(1625)に伊勢神宮の内宮・外宮の両宮のご分霊を奉じさせ、ご鎮座頂いたことがご創祀であります。(こうしきHPより、)

2021年9月28日、櫻井翔さんと相葉雅紀さんが結婚を同時発表したました、
「櫻井翔さん、相葉雅紀さんがご結婚おめでとうございます。」
まるでお二人両名が結婚したかのよう見えますね💦それぞれ一般の方ですが、そこで今回は特別に櫻井神社の写真を掲載しております、以前より有名人を次々と結婚に導くために櫻井さん自身が櫻井神社と呼ばれておりました、ご本人が幸せになる事が一番に望まれている事。そこで皆様にも幸がありますよう特に良かったと思う写真を載せております、上記のは春と晩秋、櫻井大神宮への道中と、櫻井大神宮前の鳥居です。パワースポット一人旅の様な遠隔参拝ではありませんがよろしければどうぞ。
ただ、相葉雅紀さんの関係神社はこちらでは見当たりませんでした、併せて宜しくお願い致します。


​第19回 鬼と見なされた吉備一族の首領 温羅について、​
今回の第19回目は桃太郎伝説の鬼のモデル温羅について紹介します、前回の第18回目は 住吉大神 表筒男命、中筒男命、底筒男命について紹介しました。先月末、『鬼滅の刃無限列車編』が初めてTV放送され好評を得ました、あと炎上の方も、2時間40分の中CMが40分とか、各駅停車とか、色々と言われましたが…それはともかく、そんなものだろうと思います。前回含めてこのところ紹介している神様は”水”にご縁のある神様が多い事に気付きました、これは正直偏っていてマズイ、ただ、瑞穂の国という位なので水を司る神様が多いのも事実ですが、そこで、両面宿儺以来ですが、いわゆる大和朝廷の敵として登場、地元では英雄、今でも大切にお祀れてきいる方を紹介します。​

なお、今回はネットから持ってきた記事を載せておりますので併せて宜しくお願いいたします。

(皆既月食 #天使の輪みたいになってる 皆既月食を見てほしい。ラビットアイ@momizi02

温羅伝説
1. AC.4XX年、朝鮮半島から吉備へ大きな船がやってきた。

鬼ノ城1
当時、吉備の岡山・倉敷・総社の一帯は、海が吉備平野の半ばまで入り組んで、吉備の穴海と呼ばれていました。その船から身を乗り出して見下ろす男は、身の丈1丈4尺(約4メートル24センチ)と形容され、とてつもない巨大漢に見えた、と言います。両眼は爛々として虎狼のごとく、茫々たる鬢髪は赤きこと燃えるがごとく、とありますから、中央アジアの韃靼人の血が入った韓人と想定されます。男は自分のことを「百済の王子である」と名乗り、大きな戦に敗れ、逃れてきたのだと言います。その話を聞いた民衆は王子をはじめ百済の技術者集団らを温かく受け入れました。王子はそのお礼にと、造船技術、たたら製鉄技術など百済の優れた技を吉備の地に伝授し、豊かな先進地域にすることを約束しました。

2. 温羅の山城、鬼ノ城
鬼ノ城2
百済との戦いに勝利した朝鮮半島の古代国家が、自分たちの後を追って、いつ日本(吉備)へやってくるかわからない、と考えた王子がまず始めたことは、本土防衛のための山城造りです。吉備津神社縁起によれば、朝鮮式の古代山城にならい、標高400mもある山の山頂に居城を築き、そばの岩屋山には楯を構えたといいます。百済からの渡来人は、この城壁のことを「ウル」と呼んでいたことから、王子はいつの間にか「温羅(うら)」と呼ばれるようになりました。
そのころ吉備は、瀬戸内海とつながった中海の港があり、都へ行き来する船が数多く寄港していました。海に近いところから、造船技術、製塩技術の発達に加えて、温羅が百済からもたらした「たたら」と呼ばれる製鉄技術によって、ますます繁栄していきます。
吉備高原や中国山地で採取された砂鉄は、城の真下にある谷間(千引かなくろ谷遺跡)まで運ばれ、精錬炉4基、炭釜3基を使い、盛んに製鉄が行われるようになりました。鉄製の農具は吉備の沖積平野の開発を飛躍的に促進し、鉄製の武具は軍事力を格段に増強しました。こうして吉備の国の政治勢力は当時近畿地方で支配力を確定しつつあった大和朝廷と肩を並べるようになりました。

3. 温羅に象徴される吉備津王朝の実力。
備中国分寺周辺・造山古墳
温羅に象徴される吉備王国の最盛期の力を物語るのが、備中国分寺の東にある造山古墳です。この前方後円墳の長さは360m、日本で第4位、大和以外では最大で、エジプトのギザのピラミッドの底辺(230m)をはるかに超えています。墳丘は3段築成で、くびれ部分に造出があります。造山古墳には陪塚とよばれる6基の小規模古墳があり、古墳群の中を散策できるほどの広さです。
話を温羅に戻します。城のふもとに広がる阿曽郷は鋳物師の地として知られるようになり、温羅は阿曽郷の神職の娘である阿曽媛を妻として迎え入れます。吉備(キビ)とは古代朝鮮語のキンがキビになまったもので、吉備王朝は、黄金の光のような輝きに包まれます。しかし、この輝きは、すでに凋落の兆しを宿しはじめました。

4. 大和朝廷の西方将軍=吉備津彦との戦いの始まり。
楯築遺跡・矢喰神社
こうした吉備の国の繁栄は、全国統一をもくろむ大和朝廷には当然面白くなく、大和朝廷は勢力拡大のため、ついに動き出しました。大和朝廷が吉備攻略に踏み切った理由には、吉備=中国地方に豊富に埋蔵される砂鉄と、それを精錬する製鉄技術にありました。全国制覇をもくろむ大和朝廷にとって、武具と農具生産に必要な鉄生産は,勢力拡大のため喉から手がでるほどのイノベーションだったのです。
北陸、東海、丹波、そして西道(山陽)の4ヶ所に派遣された将軍を4道将軍と呼びますが、西道の将軍として任命されたのが、吉備津彦命でした。命は大軍を率いて吉備に下り、まず吉備の中山に陣を敷き、西の片岡山(現在の「楯築遺跡」)に石楯を築いて防戦の用意をしました。
いよいよ戦いの火蓋は切って落とされました。武勇に優れた命は次々に矢を射る。一方、腕力の強い温羅もこれに負けじと岩を投じる。不思議なことに、矢と岩とは空中でぶつかり、海中に落ち、戦いはまさに五分と五分。温羅の投げた巨岩が命の矢に当たって、海中に落ちてしまいます。4つの巨岩が矢喰宮の鳥居の近くに現在も残っています。温羅が岩を投げた鬼ノ城山上と命が矢を放った楯築遺跡のちょうど中間点です。

5.鯉となって逃げる温羅を鵜となって追う吉備津彦。<鯉喰神社>
そんな時、命はふっと一計を思いつきます。一度に二本の矢を射ればどうだろう、と。一本はこれまで通り、空中で岩とぶつかり合いますが、もう一本が温羅の左目に命中し、温羅の目からしたたり落ちる血潮は血吸川まで流れて行きます。
左目に傷を負った温羅は雉に姿を変えて山中に隠れようとしますが、命は鷹になって追います。温羅は鯉に化け血吸川に入り逃げようとしましたが、命はたちまち鵜となって、これを噛み揚げ、ついに温羅を捕らえることに成功しました。その地が現在、鯉喰神社として残っています。

6. 吉備津神社、大回廊の甍の下に眠る温羅物語の終焉(クライマックス)。
古くから「備中一ノ宮」とよばれ、天災や災害が重なり政治も乱れ関東の平将門、瀬戸内の藤原純友の乱が起こると朝廷は全国の十三の大社に幣を献じて鎮定を祈願させましたが吉備津神社もその内の一社でした。その後乱が治まった天慶三年(940)にはその功により一品という最高の神階を授かっています。これ以降明治まで「一品吉備津宮」と人々に呼ばれて篤く崇敬を受けています。(吉備津神社縁起より)
桃太郎伝説に登場する桃太郎は大和朝廷から派遣された将軍=吉備津彦、鬼は「温羅」と呼ばれる百済の王族です。吉備津神社は吉備津彦を祭神として祀ると同時に、温羅と吉備津彦の戦いの最後の舞台でもあるのです。この大回廊から分かれる御釜殿がその舞台です。

7. 夜毎13年間も唸り続ける温羅の首。妻「阿曽媛」の祈りで。(鳴釜神事)
話を温羅と吉備津彦の追走劇にもどします。命は民衆への見せしめとして、温羅の首をはね、それをさらしました。(岡山市首村はその遺跡) しかし不思議なことに、その首は何年経っても大声を発して鳴り響いて止みません。民衆はこれを見て、みな嘆き悲しみました。温羅の首はまるでその声に応えるかのように唸り続けました。命は部下の犬飼武(いぬかいたける)に命じて犬にそれを食わせましたが、それでも肉が尽き、ドクロになってもなお吼え止みませんでした。その姿に脅威を感じた命は、吉備津神社御釜殿のかまどの下に埋葬します。それでも温羅は13年間、唸り続け命を悩ませました。
ある夜、温羅が命の夢枕に立って言うには「わが妻、阿曽媛に命の釜殿の神饌(みけ)を炊(かし)がしめよ。もし世の中に事あればかまどの前に参りたまえ。幸あらばゆたかに鳴り、わざわいあらば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れたまえ。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん。」と。命がお告げ通りにしたところ、温羅の唸りは収まり、釜占いが始まりました 。(鬼に出会う、吉備路より、)


『鬼ノ城』は実在し、再現され、今はトレッキングコースに、今観光地としてこれ程良い場所はなかなかありません。ただ、7世紀に建設された大和朝廷の防御施設ですが、「白村江の戦い」という歴史的事実がこの防塁を作らせたとか、鬼ノ城は…記紀より時代がずっと後世ですが。
それに、温羅は地域貢献した大英霊じゃないですか、FGOの英霊として登場して欲しい。Wonderland Wars(ワンダーランド ウォーズ)というゲームに登場していた様ですが、このゲーム自体知りません、温羅は桃太郎モデルの吉備津彦命なかなかマイナーなキャラクター、まあFGOはそういうのが多いですから、クラスはなんでしょうね、バーサーカーでしょうか?。吉備津彦命ならセイバーで、倭迹迹日百襲姫命ならキャスターだろうと思いますが、彼女なら卑弥呼の別召喚かもしれませんが、って…FGOの話してどうする。
それから、昔マンガで外部から来た渡来の人が、村人たちにそれまで無かった製鉄等の最新技術を教えたものの、村の娘に恋仲になってしまうが、反対した一族の長と仲間によって殺されるというものがありました、温羅の話はその類かもしれません?
百済の王子というのは有名な話、それよりも、その姿からもっと北の民ともしています。だから見慣れなかったとも…例えば、黒船来航の時、ペリー提督率いるアメリカ艦隊の人々を瓦版では鬼の様な結構酷い書かれ方しているので、当時の認識すらまだまだそんなものなのでしょう。だからこそ当時小柄な我々からすると4ⅿとはいかないまでも、進撃の巨人の様に見えたのでは…大和朝廷で鬼やまつろわぬ民とされた人々は、地元では英雄である事はよくある事、前に紹介した両面宿儺もそうでした。温羅は外国から来た渡来人ですが、それから、まつろわぬ民とされるアラハバキは縄文時代の神とされています、土蜘蛛もまた同じ、鬼は東方に主に多いとされています、それは恐らく大和朝廷から追われたからではと思っています。

(VIBRATION STARS 猗窩座&煉獄杏寿郎セピアver.)

温羅(うら)~鬼と見なされた吉備一族の首領
桃太郎と温羅の関係

温羅とは百済(くだら)の王子で、吉備へとやってきて一帯を支配した一大勢力の首領であった。身丈は1丈4尺(約4.2メートル)もあったというから、相当な巨漢である。頭髪は燃えるように赤く、眼は虎狼のごとき鋭さであったというからおぞましい。それが、都に送る貢物や婦女子を略奪するなど、悪行を働いていたという。
崇神(すじん)天皇がこれを苦慮して派遣したのが、四道(しどう)将軍の一人、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと・後の吉備津彦命・きびつひこのみこと)であった。吉備に将軍を派遣したというくだりは、『古事記』にも記されるところである。
ともあれ、吉備へとたどり着いた命が本陣を構えたのが、現吉備津神社あたりであったとか。ここから、温羅が拠点とする鬼ノ城めがけて矢を放ったという。2本の矢を同時に放って、うち1本が温羅の目に命中。すると、温羅は雉に化けて逃走。命も負けじと鷹に変じて追いかけるなど、両者とも変化の術に長けていたようである。ここで、命が温羅を捕らえて犬に食わせようとしたものの、今度は鯉となって、また逃げられてしまった。ならばと、命も鵜に変じて捕獲。ようやく首を刎ねることができた。
ただしその首は、地中深く埋められたものの、13年間も唸り続けたとか。温羅の妻・阿曽媛(あぞめ)に神事を執り行わせてようやく唸りが静まった…というのが、温羅伝説の大筋である。
もうお分かりだろうが、ここに登場する五十狭芹彦命こと吉備津彦命こそ、桃太郎のモデルだったことはいうまでもない。温羅とは勿論、退治される側の鬼である。桃太郎の家来の犬や雉まで、都合よく登場しているのもミソである。

狗奴国を邪馬台国が征したことが温羅伝説の元?
ところがこの伝説、単なる作り話かと思ったら大間違い。実は、史実としての吉備領域内での東西の抗争、およびヤマト王権と吉備国の対決を物語っていると考えられるからである。
舞台となった史実としての鬼ノ城とは、「白村江の戦い」(663年)の敗戦後、百済からの亡命者の指導のもと、国土防衛を目的として築かれた朝鮮式山城であったということはご存知の通り。主に総社(そうじゃ)市などを中心として広がる領域であるが、この辺りから西一帯を支配していたのが、吉備氏族の中でも下道臣(しもつみちのおみ、祖=稚武彦命・わかたけひこのみこと)と呼ばれる一族であった。
対して、その東の岡山市一帯を拠点としていたのが上道臣(かみつみちのおみ、祖=吉備津彦命)である。上道臣は雄略(ゆうりゃく)天皇の御代以降、ヤマト王権に隷属するようになったものの、下道臣は依然、王権にまつろわぬ勢力のままであった。この王権の後押しを得た東部の上道臣の始祖とされるのが吉備津彦であるが、その後、後裔(こうえい)が西部の下道臣領域内に攻め込んだことこそが、温羅伝説および、おとぎ話桃太郎の元となったのではないか? そんな風に推測することもできるのである。
これは、『桃太郎と邪馬台国』(講談社現代新書)を著した前田晴人氏の掲げる説を元に構成し直したものであるが、同氏によれば、おとぎ話桃太郎に登場する犬、雉(鳥)、猿が、西方を示す戌、酉、申のことを示しているのではないかとも指摘する。確かに吉備は、ヤマトから見れば西方である。
また、吉備津彦の家来として、犬飼県主、鳥飼臣、猿女君といった豪族がいたとして、これが、犬、鳥、猿として語られたとの説を掲げる識者がいることも記しておきたい。
さらに興味深いのは、時代を遡った3世紀の事象までもが、これらの鬼退治物語に投影されているのではないかとの説である。前田氏によれば、ヤマト王権の前身が邪馬台国で、吉備国の前身が狗奴国(くぬのくに)であったという。狗奴国が邪馬台国と抗争を続けていたことは、「魏志倭人伝」にも詳しく記されているところであるが、その狗奴国を鬼に見立て、これを退治したのが邪馬台国、つまりヤマト王権の前身であるという説だ。
もちろん、異論が少なくないことはいうまでもないが、狗奴国と邪馬台国の関係が、吉備国とヤマト王権の関係に極めて近似していることは見逃せない。再検証の上、その関連性が証明されることを願うばかりである。ともあれ、以上の観点から、王権側の手なる者が、自らの権威の象徴として、この物語を作り上げたのではないかと見なすことができるのである。(歴史人より、)


桃太郎の元ネタ、いや、酒吞童子をはじめをとする鬼の元ネタがこの温羅伝説、今の鬼のイメージのだいたいが記紀が編纂される頃あったみたいです、意外に鬼のイメージは古くから存在していた様、最も古い鬼は目一鬼という『出雲国風土記』で登場する鬼、そう、天目一箇命の事、こちらについても以前に紹介しました、やはり外国人説や縄文人説が最も有力なのでは。
それから、一般的に鬼のイメージはもっと後とされ、仏教の伝来と共に伝わったとされ、当初は「何かわからないもの」への漠然とした恐怖が生み出した存在で擬人化はされていませんでした。それが擬人化されはじめたのは平安時代、鬼の特徴であるパーマや頭に2本の牛の角、虎の皮のパンツ、手に金棒を持った姿は、元は地獄の鬼が由来とされていました、風水の鬼が出入りする「鬼門」は北東との方向で丑寅の方角、そこから頭が牛で下が虎という鬼の姿が生まれたとされています。
ちなみに、鬼滅の刃 無限列車編のクライマックスで登場した”上弦の参 猗窩座(あかざ)”どの鬼よりも、鬼らしい姿をしています。それとその入れ墨から縄文時代の人がモデルとも取れる筈、縄文時代の成人男性が入れ墨をしていたともしています、まあ、そういう証拠はでてませんが、土偶でみてとれます。魏志倭人伝よると倭人の男性は入れ墨していたとも、温羅がその地域に古くからいる民と捉える事も出来るかもしれません。それから、北の民が入れ墨をしている事も、総合的な伝説から温羅という鬼の統領が誕生したともとれます。

(二宮神社 裏 長垂海岸)

温羅とは、
古代の吉備(現在の岡山県南域)に来訪し、地域の支配者となった鬼。
一説においては百済において権力闘争に敗れ、吉備の地に流れ着いた、かの地の皇子であったとの伝承もある。
両の目は虎や狼のように輝き、赤い髭と髪は炎のように赤く伸びきっているという異様な風体で、顔つきも凶悪。
身長は四メートルを超え、さらに怪力の持ち主であった。
山に「鬼ノ城」を築き、同地方に君臨していたが、婦女を浚い、意に沿わない相手を「鬼の釜」で茹でて食べる等の暴虐ぶりで現地の人々を苦しめた。
彼らが宮廷に訴え出た事で当時の天皇、崇神天皇は軍を差し向けるが、兵の扱いに長け、さらに変身能力を持つ温羅を倒すのは困難であったため、軍は一旦退いた。
天皇は、皇族の武人吉備津彦を遣わし、温羅を退治させる決断をする。
吉備津彦は武力に長けるだけでなく、温羅同様変身能力を持っていた。
不利をさとった温羅は変化して逃亡を図るが、温羅が雉に化けると吉備津彦は鷹となり、鯉に化けると鵜となり噛みつくと、温羅はとうとう根を上げ屈服した。
吉備津彦は温羅の首を刎ね、晒し首としたが、鬼の首は唸り声を上げ、周囲の人々を恐れさせた。
彼が家臣に命じて犬に首の肉を食わせて髑髏にしても、釜の下の地中に埋めても唸り声は止まらなかった。
人々が恐れる最中、温羅は吉備津彦の夢の中に現れ、自身の首を吉備津彦の宮廷(吉備津宮。現在の吉備津神社)の釜の下に祀るように指示する。そして釜の守り役として自身の妻を初代とし、その血を引く姫に代々、彼の霊を祀る役をさせる(=自らの血筋を自身の守り役として後世に残す)ように言い、これが実現できるなら自らは祟り神から先触れの神(丑寅の御崎神)となって吉備津彦の役に立つ、とした。
吉備津彦がこの意に従った事によってようやく唸り声は止んだという。そして温羅の首が埋められた釜は、巫女の祈りによって鳴動し、その吉凶を人々に知らせたという。
これが吉備津神社で行われ雨月物語にも記された「鳴釜神事(吉備津の釜/釜占い)」の始まりであると伝えられる。

異説
吉備津彦との変化を交えた追走劇において、温羅は一度讃岐(香川県)に渡った、とする異説がある。
吉備津彦の追撃をかいくぐり瀬戸内海まで逃げた温羅は瀬戸内の群島のひとつである離島・女木島に潜伏し、そこで讃岐に吉備津彦の姉姫である百襲姫(ももそひめ。倭迹迹日百襲姫命。讃岐国一宮・田村神社の主神)が地域を治める巫女として派遣されている事を知る。
百襲姫の存在を知った温羅は彼女を人質にすることを画策。女木島を新たな拠点として海賊軍を組織し軍勢を整え、対岸の讃岐国上笠居(現在の高松市鬼無)に進軍する。
事態を知った百襲姫は大慌てで神意をもって吉備津彦に急を告げる。
温羅が吉備から去ったのち、戦後処理(残党狩り)に追われていた吉備津彦は、姉からの急に即座の対応をとる事ができず、やむなく共に温羅討伐に参加していた副官にして自らの弟である稚武彦(わかたけひこ)に先陣を切り百襲姫を助けるよう言い含め、讃岐へと派遣する。
讃岐に渡った稚武彦は瀬戸内は犬島の民・綾川の山奥にて陶芸を営む猿王・上笠居は雉ヶ谷に逃れていた住民たちと共に讃岐温羅討伐を開始。見事にこれを達成して百襲姫を救い出して讃岐国に平穏を取り戻した。(あるいは別の異説として、百襲姫本人が男装した上で、弟たちの名を使い温羅と戦った、という説もある)
のち温羅が讃岐本土側に構えた陣屋の跡地は、戻ってきた人々によって「もはや鬼の居無い土地」として「鬼無」と改められたとする。
かくて女木島より追い出されて再び落ち延びた温羅は、卑怯な手を使い続けた自らを恥じつつも、ゆえに勝つ事ができなかったのだという境地に至り、結果としてかつての王としての誇りを取り戻し武人の覚悟を定めて残党たちを自らの元に集結させ、吉備津彦との正々堂々の戦いへと挑む……(そして吉備の温羅伝説の後半となる最終決戦に至る)というのが、この「讃岐温羅」の異説の顛末である。

後世にて
後世、吉備津彦の温羅退治伝説は、桃太郎の鬼退治の昔話の元になった。山にあった鬼ノ城も(異説では女木島も含む)「鬼ヶ島」という形で名を残している。
平安時代の歌集『梁塵秘抄』には「一品(いっぽん)、聖霊(しょうりょう)吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人、丑寅みさきは恐ろしや 」との歌が残る。吉備津宮とは現在の吉備津神社の事であるが「丑寅みさき」は温羅の事。
岡山県下には「御崎(みさき)神社」「艮御崎(うしとらみさき)神社」と呼ばれる神社が多いが、この名を冠した神社は「吉備津彦に仕える先触れ神としての温羅」を主祭神に祀っている。
上述のように鳴釜神事は雨月物語の「吉備津の釜」として題材にされている。(ピクシブ百科より、)


倭迹迹日百襲姫命、歴代天皇チャンネルの時に紹介したお姫様、三輪山の神の大物主神の妻、第7代孝霊天皇の皇女です、孝霊天皇は所謂、欠史八代と呼ばれる実在が怪しまれている天皇の一人、そもそも、その頃は少なくとも大王といった時代でした。記紀では倭迹迹日百襲姫命は大物主神の正体が小蛇と知って驚き、箸で陰部をついて死んだされています。
その墓も『箸墓』といい近くには檜原神社があります、ご祭神は天照大御神、豊鍬入姫命がお遷したとされ、元伊勢の元祖ともされています。実は倭迹迹日百襲姫命がご祭神としてもおかしくは無いのかもしれません。
更に、倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼のモデルされ、桃太郎のモデルである吉備津彦命と姉弟とされています。異説は倭迹迹日百襲姫命が男装して…って、なんだか天照大御神にしても神功皇后にしても男装多い、女神や女帝が勇ましく戦うのは記紀の編纂の際に天武天皇の皇后である持統天皇に配慮したのでは?という説もあります、だから倭迹迹日百襲姫命が男装という異説も。
なお、女装をしたのが日本武尊と須佐之男命とされていて、男装より少ない…あれっ???
何だか温羅から大きく逸れましたが、『鬼ノ城』が7世紀の建物だとすると、温羅はじめその関係者はもしかしたら渡来人で防御施設を建設に関わった功労者だったのかもしれません、これは私のただの想像にしか過ぎませんが、考えが正直怖すぎる。後に鬼とされた56されたのでは、それだけ彼らが脅威だったとも、丁度、藤原氏の祖である藤原不比等が事実上実権を握った頃、実は『古事記』を編纂した太安万侶と稗田阿礼はその後56されたともされています、天武天皇は彼ら共に防御施設を建設に関わった為に流石にそうする事は出来なかったでしょう、が、持統天皇の時代に代わりそこは関係ないのでやったのでは、彼の居城を『鬼ノ城』と付けて、持統天皇と言うより、藤原不比等があまりにもその力を恐れすぎたのでは、温羅をそれだけ執拗に倒したかったという事でしょう。亡くなった後もその遺骸すら脅威だったなんてどんだけでしょうか。しかし、やっている事は、薩長が例えば会津や函館、上野でやった事と変わらないですが。
しかし、前回の住吉三神とその前の宗像三神で紹介した海人一族や海賊等が登場してるあたり瀬戸内は流石伝説が多いだと思います。

第19回  鬼と見なされた吉備一族の首領 温羅についてでした。





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最終更新日  2024年01月20日 20時44分40秒
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