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カテゴリ:風景・旅行など
まるで天孫降臨の様な 2023年の初詣 八大龍王神社、熊野神社 今津、潤神社、志登神社 です。 八大龍王神社は洲之崎の先端にあります。 八大龍王神社(今津) 今津干潟と博多湾を仕切るように「洲の崎」と呼ばれる細長い岬が延び、ここの小さなほこらに八大龍王が祀られています。八大龍王とは、雨乞いや海難など、水に関する神様8人の総称で、全国各地に祭られていますが、ここ今津のほこらは、臨済宗の開祖・栄西が1187~1191年に中国の宋に2度目にわたったとき、暴風雨に遭いながらも無事帰国できた感謝を込めて建立したものです。(西区の宝より、) 振り返りの景色、1月はじめという事で管理の方がおられました。↑↑を知ったのは去年のこと、龍神様系統の神社が特にパワーが強いという事で探していました。まさか近くあるとは思いませんでしたが。 八大龍王とは、難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、娑羯羅(しゃがら)、和修吉(わしゅきち)、徳叉迦(とくしゃか)、阿那娑達多(あなばだった)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはつら)の事、八大龍王は数ある龍神の中でも強く、特に難陀と跋難陀の兄弟が強い。 前回のおさらいです、 地元の方が少し来られていましたが行った時は居ませんでしたね、初詣にも良い場所、こちらは地元から少しだけ遠いものの、是非、地元の氏神様へお参りされてみるのもよいです。いっそ、近くの龍神様が祀れている神社に行かれてみては、 ↑↑↑前回紹介していませんでしたのでここで紹介します。 神様とうさぎ、過去に何度か紹介してきました。 はて??どこかで見たことあるような…だいぶ粘りそうな餅だな 今津の海岸、 向こうには福岡タワーとドームが拝めます。 熊野神社(今津) 御祭神:伊弉那美尊、速玉男命、事解男命 紀伊熊野からの勧請したそうです。 熊野権現 「民家の後高き所に在。産神なり。紀州熊野の神を勧請すといふ。寿福寺奉祀なり。」 今津漁港の背後に位置する当地の産神様です。拝殿には明治から昭和の武者絵馬があります。(西区の宝より、) 八大龍王神社の近くに鎮座しております、階段が高くて狭くて急…只者じゃないところが熊野神社だと思う。 潤神社 ご祭神:五十猛命、伊弉册尊、宗像三柱大神、住吉三柱大神 今日は中に灯りが付いていて、ご祭神である五十猛命様おられました、白い着物に青い波模様の冠をされていた様です。 これはただの個人の感想、頭に浮かんだイメージですが、社殿の奥に座られていた様な気がしたのですが、松本潤さんに似たような神様だったように思えます。※余談にはなりますが、動画中でとあるの体験談で、オカルトの話が好きだが、そういう類は全然見える事が無かったのだが、ある日の夜に急に見えだした、それは、現実の景色に脳内でイメージしたかの様なものが見えたそう…正にそれでした、同じ方がいました。…アレでは無いですけど。 それをイメージを書いたり、説明したりするのは難しいし、見えない人は理解出来ないし、そもそも、しないしでしょう。 そう言えば大河ドラマは今回 徳川家康、その家康役が松本潤さんでしたね…うっかり忘れていました。『どうする家康』 志登神社 今回は最後に前回の正月に初めに紹介した志登神社を紹介します。 ご祭神:豊玉姫命、相殿:和多津見神 息長帯姫 彦火々出見尊 武内宿禰命 寿亀碑 境内入り口の注連柱の前で参拝者をお迎えしています。御祭神の豊玉姫命は、浦島太郎伝説における乙姫ともされる神様です。乙姫に連れられた浦島太郎は、海亀に乗って龍宮へと誘われたと伝えられています。志登神社では「寿亀」として社碑を奉り、皆様の多幸を迎え入れています。 志登神社 由緒延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に十九式内社ゃの一社いっしゃでとして糸島いとしまで唯一記載きさいせられた式内小社です。 御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。 社地の近くには豊玉姫命が髪を梳った地とされる岩鏡や、鏡掛松、拝松、古宮、玉ノ井などの古跡が点在しており、南東5kmの高祖山で彦火々出見命を祀る高祖神社、彦火々出見命が龍宮に赴くのを導いた塩土翁を祀る志摩芥屋の塩土神社も何かしらの関わりがあると考えられています。 古くからこの周辺は、海洋交易の要衝で、入江が東西から割り込み伊都国の港を形成していたと考えられています。南東600mにはそのことを裏付ける志登支石墓群が残されています。国指定遺跡の志登支石墓群は、弥生前期(約2500~2200年前)に造られ、朝鮮半島との繋がりを示すものとされています。 天正9年(1581)11月に高祖山城の城主であった原田隆種により再建され、高祖神社の御祭神である息長帯姫命と武内宿禰命の御神体を分霊し、潤村から西太郎丸村まで12丁歩の神田が寄附されました。しかし豊臣秀吉の九州平定(1586-1587)の時、神領を悉く没収され神官社僧も皆農夫となり廃絶の危機に至ります。元禄3年(1690)3月、第3代藩主の黒田光之から神田1町6反の寄附と共に神殿を初め末社に至るまで造立され再興されました。明治5年(1872)11月3日郷社に列格、大正5年(1916)10月12日県社に昇格し、同年12月12日幣帛供進社に指定されました。平成27年(2015)12月に前年の火災焼失から再建されました。(九州御朱印巡りより、) 過去に火災の被害に見舞われましたが、社殿はかなり明るくなって良くなり、初詣も人が多くお参りに来ておりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年02月15日 20時56分34秒
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