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2024年02月10日
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​Fate/Grand Order ツインウエハース特別弾 その2​​

また凝りずに手に入れていますが、まあ、オベロンか村正が欲しかったし、それに、『FGO』ウエハースは結構再販が多いですし。

​20.セイバー/千子村正​
今回特に欲しかった一つで見た通り衛宮士郎を依代にした刀鍛冶、エミアが苦手するとか、当然と言っちゃ当然だな、、ま、でも、村正もエミヤみたいになっとるし、しかし、『FGO』依代キャラ多くないすか?
村正とは、
室町時代,伊勢国桑名の刀工。生没年不詳。同名が少なくとも3代は続いたとみられ,作刀にみる年紀では文亀元年(1501)が最も古い。俗説に正宗の弟子と伝えるが,これは誤りである。村正の作刀は切れ味のよいことで名高く,作風は〈のた(湾)れ〉に互の目(ぐのめ),箱がかった乱(みだれ)を交えた刃文を得意とし,とくに表裏の刃が揃うところに見どころがある。村正に関する伝説として妖刀説や徳川家にたたるという説があるが,これは徳川家康の祖父清康が阿部弥七郎正豊に殺されたときの刀が村正であり,父広忠が岩松八弥に斬りつけられたのも,また嫡子信康が自害の際,介錯(かいしやく)された刀も村正で,家康みずからも村正の短刀で怪我をしたということなどが重なりあって生じたものである。そのため,村正は徳川家にとって不吉であるとされ,譜代の大名や家臣は差料とすることを慎んだという。(改訂新版 世界大百科事典より、)
『FGO』では、
真名

室町時代中期に興った刀工流派、『千子村正』。その創始者に当たる人物。「せんご」と読まれることもあるが、『Fateシリーズ』でのルビは「せんじ」となっている。出自は美濃国とされるが、活動拠点は伊勢国桑名村を中心としていた。村正一派の刀剣はその切れ味の鋭さによって知られており、戦国最強と称された徳川の豪将本多忠勝が振るったことで知られる名槍・蜻蛉切や、同じく彼と同じ徳川四天王の一人酒井忠次の逸話から名がついたことで知られる名刀・猪切も彼らの作とされている。しかし江戸時代になり、近隣で活動していた松平氏が天下を掌握すると「神君家康公に不易をもたらし続けた“妖刀”」という悪評を押し付けられ、後世まで忌み嫌われることになってしまう。(ピクシブ百科より、)

…たまたま悪い事が重なって妖刀とされるのは実に不憫ですね、徳川家康はビビリやからね、今回正宗のを取り上げますが、村正も実は気になるよあ、村正もまたいつか考えてます。伊吹童子、ヤマトタケルは自身が追い求めた神剣のオリジナルを受け継ぐ当事者達。村正が聖杯にかける願いも「かの剣の本物を見てみたい」だったのだが、奇しくも持ち主がカルデアに来ることで叶ってしまった。それ故流石に驚きを隠せず、興味津々のご様子だとか、

​10.ムーンキャンサー/BB​
BB​さん、間桐桜の依代キャラでは無くコピーだったのですね、、異分子プログラムという事で…おそらく元の桜にある闇の部分が出たものと…間桐桜は色々と複雑な事情があるヒロインだからね、
なお、パールヴァティーなら依代ですが…なお、パールヴァティーは村正さんを見るとドキドキが止まらない様ですが、シヴァの依代が衛宮士郎かエミヤだったりしてな。
ムーンキャンサー BB​とは、
 『Fate/EXTRA CCC』に登場するキャラクター。 月の聖杯戦争の最中の主人公たちを、月の裏側に引きずり込んだ張本人。 元々はムーンセルの上級AIである間桐サクラの同型機だったらしいが、何らかのエラーにより暴走。月の聖杯戦争に参加するサーヴァント128体のほとんどを吸収したとされている。  どこかで見覚えのある黒いタコのような姿をした使い魔「シェイプシフター」を操り、マスターをムーンセルの管理の届かないという"月の裏側"へと引きずり込み監禁。 ムーンセルを我が物にするために中枢領域を目指し月の表側に続くサクラ迷宮を掘り進め、脱出作戦を企てる月海原学園生徒会を妨害する。
クラスと思しき分類名は「ムーン・キャンサー」。 キャンサー(cancer)は蟹座と言う意味だが、同時に癌という意味もあるので直訳すると「月の癌」すなわち「ムーンセル(月)に発生した癌細胞」と言う意味となる(一応、月の海をカニに見立てる地域があるので、無関係という訳でもない)。 本来ならばある程度の自由こそあれど一定の役目しか遂行できない上級AIでありながら、その役目から完全に外れこのような暴走行動に出る様はまさしくムーンセル側から見れば癌細胞である。 ちなみに、癌細胞は発がん物質が正常な細胞を刺激することによっても発生する。  なおBBがなんの略なのかは明かされておらず、黒い桜を直訳した「Black Blossom」または桜のバックアップという成り立ちから「Backup Blossom」ではないかなど複数の説が挙がっている。1313(BB)とは海外キリスト教圏では悪い数字である13の二乗の暗示か。 あるいはゲーム中でのBB戦のBGMのタイトルが「bottom black, moon gazer」(この曲名はシナリオライター奈須きのこが直々に命名したもの)であることから「bottom black」であるという説もある。(ピクシブ百科より、)


村正さんとBBは関係が無い様ですが、一応並べています、どちらも同じ所で購入しました、なお、某所ではBBの方がいいとか。

 6.ランサー/カルナ​
『FGO』でも人気のサーヴァント、そもそも、インド勢は人気ですが…例えばアルジュナとか、インド勢の多くはイケメンだらけだもんな、、、しかしぃ、カルパじゃ無いよね、、、
カルパ??、いや、ソダシ姐さん。
なお、カルナとカルパは似てるがカルパ君はソダシの弟でサンスクリット語で”「劫波(劫簸)」を省略した言葉で、1つの宇宙が誕生し消滅するまでの期間”の事を差すとか、意外ととんでもない意味だった、インドスゲーわ。成績はアオラキ君とどっこいどっこいかな、なお、アオラキ名古屋に行くとか、”どうなるアオラキ”多分変な事にならんと思うけど、アオラキ神馬になれ、なお、↑↑2月カレンダーはソダシ姐さん、調教風景だが筋肉がスゲーわ。
カルナ(梵: कर्ण、IAST:Karṇa)とは、
『FGO』では、
インドの叙事詩『マハーバーラタ』に登場する不死身の英雄、『カルナ』。『マハーバーラタ』の主人公アルジュナの宿敵にして生き別れの兄でもある。母クンティーがアルジュナの父パーンドゥの妃となる前にマントラによって太陽神スーリヤとの間に産んだ子。不死身となる黄金の鎧を着て生まれたが、未婚の母となることを恐れたクンティーに川に流され捨てられてしまう。その後御者の家に拾われ自分の出生を知らずに育つが、師匠からの奥義伝授・アルジュナとの弓比べといったものへの挑戦権を低い身分のせいでことごとく認めてもらえないという不遇に甘んじることになる。そんな中、唯一自分を認めてくれたカウラヴァ百王子長兄ドゥリーヨダナとともに、アルジュナ達パーンダヴァ五兄弟と敵対する。しかし、これまた戦車が動かなくなる呪い・ピンチにブラフマーストラの使い方を忘れる呪い・父から授かった黄金の鎧を奪うアルジュナの父インドラの奸計・決戦時に戦意を削ぐようなことばかり言ってくる御者、と様々な妨害により実力を出せず、遂にはアルジュナに敗北し死亡する。呪いの影響や鎧をとりあげられていない場合の実力は、アルジュナに比肩するとされている。カルナは死後、太陽神である父スーリヤと一体化したと言われている。この設定は『神性』スキルに影響を及ぼしており、「『神性』Bランク以下(自身以下)の太陽神系の英霊に対する更なる耐久力の向上」という形で表現されている。『施しの英雄』と呼ばれ、何かを乞われたり頼まれた時に断らない事を信条とした聖人。非常に高い能力を持ちながら、血の繋がった兄弟と敵対する悲劇を迎え、様々な呪いを受け、その真価を発揮する事なく命を落とした英雄――それがカルナである。(ピクシブ百科より、)

カ ル ナ さん不運と言うか何というか、、、太陽神の子なのに、太陽神の子は神話では結構弱体化してる様だか、気のせいかな?

​8.フォーリナー/アビゲイル・ウィリアムズ​
なんか、幼女なのにエロいな…
アビゲイル・ウィリアムズとは、
『FGO』では、
セイレム魔女裁判の発端である少女、『アビゲイル・ウィリアムズ』。17世紀末、清教徒の開拓村セイレムで起きた「魔女裁判事件」。最初に悪魔憑きの兆候を示した一人が少女アビゲイル・ウィリアムズだった。悪魔憑きの異常な症状は他の少女たちにも伝播し、およそ一年にわたって多くの村人が告発された。その結果200名もの逮捕者、うち19名もの絞首刑、2名の獄死、1名の拷問死という惨劇を招いた。少女たちの真意やその引き金となった要因など、いまだに多くの謎が残されている。清教徒の信徒としてのアビゲイルは、神を敬い、感謝の祈りを欠かさぬ無垢な少女だ。多感で疑うことを知らない、年頃の娘にすぎない。清貧を信条とする清教徒たちは、権威におもねる教会の弾圧を逃れて海を渡り、新世界へと至る。しかしやがて彼らは追いつかれ、追い詰められた。彼らの抗議(プロテスト)の矛先は、身近な隣人へと向けられたのだ。退廃と抑圧の世にこそ『英雄』が立ち上がるように――自分を律するはずの潔白の信条は、他者を監視する道具となり、戦乱と略奪が繰り返される植民地の不穏な暮らしは、猜疑心と利己心を育んだ。――彼らはやがて心の底に狂気を、『魔女』を求めるようになる。私たちのこの不幸と苦しみは、悪魔の仕業でなければなんなのだ、と。果たしてセイレムに魔女は現れ、凄惨な魔女裁判の門は開かれた。“鍵穴”となる狂瀾たる状況。人々の欲望を映しとり“鍵”となった少女。その両者が欠かせぬのだとしたら、さて、罪はどちらにあるのだろうか。ちなみにサーヴァントのアビゲイルは、史実のアビゲイルの幻霊をベースに魔神柱によって加工されたものであり、厳密には史実のアビゲイルとは違う存在となる。(ピクシブ百科より、)


↑↑はイ○ンで残っていたものをgetしました。

最後こんな感じで…

計8枚、実際は11枚購入してます、3枚は完全ダブり、少しトラウマになってます、なんたって220円税込みだから…もうすぐウマ娘も出るみたいだから。


第41回 日本刀の代名詞!正宗について、​​
今回は41回 日本刀の代名詞!正宗について紹介します、​第40回は難局打開の神、倭建命(ヤマトタケル)について紹介しました​。ヤマトタケルは日本神話にハマるきっかけになった英雄でも、厳密には『ビックリマン』ヤマト王子がでしたが、なお、ヤマトタケルとスサノオを併せたとされています…まあ、ヤマト王子はヤマト爆神が最強でその子孫と思われるものは弱体化してるとされてますが(最終形態は他の若神子ともに直ぐに虹の中に消えたのでよくわかりません)、ヤマト神帝の時はどうも神武天皇を思わせますがこれは何か気のせいでしょうか??ヤマトタケルは業績も悲劇もあいまって完璧な英雄、それが沖田総司や源義経と同じで出来すぎている。今回の正宗は神と呼んでよいのか分かりませんが、歴史に残る名刀を作り出す鍛治師は神に相当するものと思います。日本刀も神社や寺にお供え物として奉納しますし、歴代の天皇にも献上されております。そう言った事も少しだけ紹介したいと思います。なお、正宗は特にメジャーな分伝説や逸話も数多い、しかし、知識など微塵もありませんので概要の概要だけ載せております、あしからず。

モンスターストライク公式(モンスト)

日本刀の代名詞!「正宗」ってどんな刀? 2019/08/27  帯刀コロク
物には開発者や発祥した土地、または特に著名な製作者などの名が、そのまま「代名詞」として使われるということがよくあります。火縄銃のことを渡来した島の名である「種子島」と呼ぶことなどがいい例ですが、日本刀の代名詞と称される刀工の一人が「正宗(まさむね)」です。   おそらく誰しもその名を聞いたことがあるであろう正宗は、むしろ「名刀」のイメージとして定着しているといえるかもしれません。   清酒にも数多くの「〇〇マサムネ」という銘柄があり、この起源は正宗の音読みである「セイシュウ」を「清酒(セイシュ)」にかけたネーミングともいわれていますが、名刀の鋭い切れ味や美しさを酒の味わいに例えたものと容易に想像することができます。そんな超有名刀工、正宗についてのお話です。
刀匠「正宗」とは
ではまず、正宗のプロフィールを概観してみましょう。

鎌倉時代末期~南北朝時代はじめ頃の人で、相模(さがみ)国、つまり現在の神奈川県あたりを活動拠点としていました。相模とは言わずと知れた鎌倉を擁する国であり、すなわち当時の武士たちが優れた武器を必要としたことから、刀剣の一大産地のひとつとして数えられる土地でもあります。   正宗は別名を「岡崎正宗」「岡崎五郎入道」「五郎入道正宗」などといい、日本刀の五大源流、いわゆる「五箇伝」のうち「相州伝」というスタイルを確立した刀工としても知られています。日本刀作りの伝法「五箇伝」。5つの地域に伝わる。
正宗の刀とは
正宗の刀がどのようなものだったのかを語る際に、その系譜についての予備知識を仕入れておきましょう。
 ・正宗の師 新藤五国光
まず、日本史上初の武家政権である鎌倉幕府は、常に国難にさらされて強力な武器を希求していました。 鎌倉に本格的な刀剣生産拠点が設けられたのは五代執権・北条時頼(1227~1263)の頃とされ、古来より名刀の産地として知られる他の五箇伝の地より、名匠を招聘して作刀を行わせました。 例として山城伝の山城(京都)からは「粟田口国綱」、備前伝の備前(岡山)からは「一文字助真」らが召し出されたといいます。しかし相模における刀工の祖は鎌倉時代末の「新藤五国光(しんとうごくにみつ)」であるといわれ、この国光こそが正宗の師とされています。「正宗」という刀工名が初めて文献に登場するのは、14世紀はじめに書かれた日本最古の刀剣鑑定書である『銘尽』においてであるとされています。そこには相模鍛冶の系譜として新藤五国光の弟子、と正宗が記されています。
・その作風とは
相州伝の確立者として名高い正宗ですが、武器としての機能について具体例を挙げるとすれば、「硬軟の鋼の組み合わせ」を完成させたことが特記事項といえるでしょう。これは炭素量の異なる鋼、つまり硬い鋼と軟らかい鋼を不均質に練り合わせるように鍛える造り方のことで、そのことによって剛性と柔性の両立を実現しています。 このような相州伝の作風は後世の刀工に多大な影響を与えたといわれますが、鍛え上げた鋼を高温で熱し、さらに急速冷却して焼き入れをするという技術的な難易度のためもあり、室町時代の中頃には衰退してしまいました。 正宗の太刀には細身のものと身幅が広く切っ先が鋭いものとがありますが、これは南北朝という戦乱の時代を迎えての実戦的な形状変化を反映するものとされています。 また、美術的には肉眼で確認できる大きさの金属粒子が織りなす、「沸(にえ)」と呼ばれる景色の美に特徴があります。透明感のある正宗の沸は、さまざまな変化を自然のうちに表す「曜変の妙味」と讃えられます。   短刀には特に入念な作例が多く、「上位献上品」として当時の慣習にならい無銘のものがほとんどですが、その紛れもない作風から多くが「正宗」の刀として伝わっています。
正宗は架空の人物という疑いがあった?
前項の最後で少し触れたように、正宗はその知名度に反して在銘、つまりしっかりとブランドを刻んだ作品が圧倒的に少ない刀工でもあります。もっとも、当時の相州鍛冶の作には名を切らないことが多かったことが知られており、正宗が特別であったわけではありません。しかし、それがために明治時代には正宗は実在していないという説、いわゆる「正宗抹殺論」が提唱されたことすらあったといいます。   正宗が特に著名となったのは江戸時代のこととされ、徳川八代将軍・吉宗が作成させた『享保名物帳』(享保4年、1719)には、掲載刀剣計248振りのうち、実におよそ4分の1に迫る59振りが正宗で占められていることからもうかがえます。
正宗の代表作5振り
数多くの名刀を生み出した正宗ですが、そのうちよく知られた5振りについて、号だけでもご紹介したいと思います。
・中務正宗(なかつかさまさむね)
徳川家の猛将・本多忠勝が所持していたという刃長約67cmの刀。国宝に指定されています。
・日向正宗(ひゅうがまさむね)
水野日向守勝成が戦利品として奪い取って所持した、刃長約24.8㎝の短刀。国宝です。
・石田正宗(いしだまさむね)
石田三成が所持していた、刃長約68.8cmの刀。重要文化財に指定されています。
・不動正宗(ふどうまさむね)
刃長約25cmの短刀で、数少ない「正宗」在銘の作。不動明王の彫り物があることからの号で、重要文化財となっています。
・会津正宗(あいづまさむね)
織田信長の娘婿としても知られる蒲生氏郷の所持した、刃長約65.2㎝の刀。氏郷が会津を領したことによる号で、現在とは皇室所蔵の「御物」となっています。
おわりに
「日本刀といえば」、という代名詞とすら称される正宗のおわりに   「日本刀といえば」、という代名詞とすら称される正宗の刀。重要な技術的革新をなしとげた名工として、その名が語り継がれています。   刀剣をテーマにした展覧会などでも目にできる機会が多いと思われるので、ぜひ歴史的な背景にも思いを馳せながら鑑賞してみてくださいね。
 【主な参考文献】 『別冊歴史読本 歴史図鑑シリーズ 日本名刀大図鑑』本間 順治監修・佐藤 寒山編著・加島 進協力 1996 新人物往来社 『原寸大で鑑賞する 伝説の日本刀』別冊宝島編集部 2018 宝島社刀。重要な技術的革新をなしとげた名工として、その名が語り継がれています。   刀剣をテーマにした展覧会などでも目にできる機会が多いと思われるので、ぜひ歴史的な背景にも思いを馳せながら鑑賞してみてくださいね。  
【主な参考文献】 『別冊歴史読本 歴史図鑑シリーズ 日本名刀大図鑑』本間 順治監修・佐藤 寒山編著・加島 進協力 1996 新人物往来社 『原寸大で鑑賞する 伝説の日本刀』別冊宝島編集部 2018 宝島社(戦国ヒストリーより、)

刃稲荷(やいばいなり)
「刃稲荷」は、鎌倉時代の刀匠正宗(五郎入道正宗)の屋敷に祀られていた稲荷社。
正宗は新藤五国光に師事し、「相州伝」を完成させた鍛冶職人。江戸時代に松尾百遊らが再興したものといわれている(百遊は、六地蔵の芭蕉の句碑を建てた人物)。祠には、正宗が鍛えた刀が納めてあったといわれているが今はない。
戦国時代に入ると関東の中心が小田原に移る。その流れで商工民も小田原へと移り住んだが、正宗の十一代目の子孫は鎌倉に住みつき、北条氏綱の一字をもらって「綱廣」と名乗り、以後代々「綱廣」を称した。氏綱からは無量寺ヶ谷に土地も与えられ、やがてそこは綱廣谷と呼ばれるようになる。徳川の時代となっても手厚く扱われ、元禄年間中には江戸にも屋敷を拝領したという。無量寺ヶ谷にあったという綱廣の屋敷は、佐助ヶ谷へと向かうトンネル(佐助隧道)の手前辺りではなかったかと考えられている。 谷戸の入口には「正宗の井」があって、綱廣の屋敷があったことを物語っている(「正宗の井」は、現在は個人敷地内となっている。)。正宗という名は日蓮につけてもらったといわれている。龍ノ口法難によって佐渡に流されていた日蓮が、許されてこの地にあった夷堂に身を寄せていた頃、正宗の父行光が正宗とともに日蓮のもとを訪れ、教えを乞うたのだともいわれる。葛原岡神社の合鎚稲荷社は、正宗の子孫が北条氏綱から与えられた無量寺ヶ谷の屋敷跡にあったものだという。2013年(平成25年)に葛原岡神社へ移された。かつて、七里ヶ浜は砂鉄の採集場であった。特に極楽寺川、音無川の河口で砂鉄が多く採集できたという。そのため、鎌倉で刀などの鍛冶産業が発展したのだといわれている。現在も綱廣の名は受け継がれ現在で二十四代目。その技は、「正宗工芸」として鎌倉を代表する産業となっている。(鎌倉手帳(寺社散策)より、)

鎌倉時代以降は特にこの時代に名刀というものがどんどん誕生してますね、ただ、戦国期の大規模な戦さになると刀は以外と役に立たず、槍や弓の方が使えたそう、火縄銃も出て来たし、戦法も織田信長らによって確立された、なお、戦国期に作られた火縄銃は品質が良くヨーロッパに逆輸入されていたとか。しかし、刀は斬るという事に変態的に特化していった結果、切れる刀=神格化していきました。時代が経るなか何時しか観賞用なりましたし、それこそ現在のモノづくりに繋がるものあって、ダイハツの問題の時にスズキが規定を遥かに超えた変態的な安全基準に注目が集まっておりました。なお、鎌倉時代の日本刀は現在再現出来ないロストテクノロジーとされています。
それから、寺社には日本刀が納めらていますが、当然刀剣の所縁の地も、最初の方で鍛治の神様を取り上げましたが、優秀な刀鍛冶は時には神格化する事があります。※余談ですが、鍛治の神様は一つ目で見た目がまるでモンスターの様ですがギリシャ神話のをはじめ同じ様な姿をしていたとされます。

(モンスターストライク公式(モンスト) @monst_mixi)
(​モンスターストライク公式(モンスト) @monst_mixi)
※すごっく余談なるですが、最近の『モンスト』やたらとキャラクターが可愛すぎる。💚西施 獣神化・改💚なんてばちくそ好みなのだが…ちなみに獣神化・改は最新のパワーアップですね。
西施とは、
中国、春秋時代の越の美女。呉に敗れた越王勾践こうせんから呉王夫差に献上され、寵愛ちょうあいを受けた。夫差が彼女の美しさにおぼれている間に呉は越に滅ぼされた。(デジタル大辞泉より、)

美女に溺れて滅ぶ、あるあるだよな、ハニートラップ作戦大成功、現在もハニトラで失脚する政治家や著名人はよくいる、流石四代美女と呼ばれるだけある。

正宗(まさむね)
「正宗」は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、作刀に携わった刀工です。通称「五郎入道」と名乗っていたため、一般的には「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)と呼ばれています。江戸時代に編纂された名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)において、「天下三作」(てんがさんさく)のひとりに選定された名工です。 正宗は、1264年(弘長4年/文永元年)、鎌倉鍛冶の名工「藤三郎行光」(とうさぶろうゆきみつ)の子として生まれました。1280年(弘安3年)に17歳で父親と別れ、「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の門下に入ります。ここで作刀秘術を習得。その後、山城国(現在の京都府南部)、備前国(現在の岡山県東南部)、伯耆国(現在の鳥取県中西部)など、刀の生産地を行脚して、各地の技術を研究。ついに「相州伝」(そうしゅうでん)を完成させます。相州伝の刀は、薄いながらも強度抜群の刀身が特徴であり、これは、刀の常識を一変させる革新的な鍛法でした。 正宗による相州伝の完成は、時代背景と密接に関係しています。正宗が刀工としての道を歩み始めた時期は、いわゆる「元寇[蒙古襲来]」(げんこう[もうこしゅうらい])の時期と重なっています。外国からの侵略という未曽有の事態となった日本では、これまでになく自国の防衛意識が上昇。これを受けて武を貴ぶ気風が盛り上がり、併せて刀のあり方が問われるようになったのです。 武士達が求めたのは豪壮にして実用に耐え、武運を強くしてくれる1振でした。こうした動向の中、五郎入道正宗が相州伝を完成させるのです。相州伝は硬軟の「地鉄」(じがね)を組み合わせ、「地景」(ちけい)や「金筋」(きんすじ)など刃中の働きと、「湾れ刃」(のたれば)を基調とした大模様の刃文による「沸」(にえ)の美しさを強調する作風です。これにより、刀身の強度向上はさることながら、刃文の躍動感が一気に増しました。 「山城伝」(やましろでん)の「粟田口派」(あわたぐちは)による伝統を継承した、整った「直刃」(すぐは)ではなく、荒々しい波濤(はとう:大きな波)のような刃文を刀身に表現したのです。この雄渾(ゆうこん:雄大で勢いが良いこと)さが、武運長久を希求する鎌倉武士達の琴線に触れ、正宗は、一躍著名な刀工となったのです。 以後、正宗の作風は全国に影響を及ぼし、後世に言う「正宗十哲」(まさむねじってつ)が生まれます。これは、正宗の影響を強く受けた10人の刀工のこと。正宗十哲のすべてを正宗門下と認めるのは困難ですが、「沸出来」(にえでき)を強調している点は共通しています。正宗十哲によって新しい作刀技術は日本全国に拡大し、のちに「新刀」や「新々刀」(しんしんとう)が誕生する原動力となるのです。 このように、五郎入道正宗の登場により、日本における刀の歴史は大きく転換しました。このため正宗は、「日本刀中興の祖」と位置付けられています。
相州伝の名工「正宗」
「正宗」(まさむね)は、「相模国」(さがみのくに:現在の神奈川県)で鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した刀工です。名刀を鍛える刀工として世間一般にも広く周知されており、日本刀の歴史の中でも、最も有名な刀工のひとりと言えます。当時からその腕前は高く評価されており、その作刀は大名たちに大金で購入され、家宝とされてきました。「名物」(めいぶつ:古来有名で、異名を持つ刀剣類)がたいへん多く、「越中国」(えっちゅうのくに:現在の富山県)の刀工「郷義弘」(ごうのよしひろ)や京都の刀工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)と並んで、世に多くの名物を生み出したのです。
正宗の系譜
正宗の出生に関しては諸説唱えられており、確かなことは断定できませんが、「相州伝」(そうしゅうでん)を興した「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の息子、もしくは門人と伝わる「藤三郎行光」(とうさぶろうゆきみつ)の子として、鎌倉の地に誕生したとするのが通説です。  父親の行光が属していた「新藤五一派」(しんとうごいっぱ)は、先述の通り相州伝という新たな流派を興しましたが、開祖の「国光」(くにみつ)が、もとは「山城伝」(やましろでん)を学んでいたことにより、作風に山城伝の名残も持っています。よって行光に学んだ正宗も、相州伝と山城伝の影響を受けましたが、全国を行脚し、あらゆる流派の技巧を学びながら独自の技術を練り上げ、相州伝を完成させていったのです。
正宗と正宗十哲
正宗は、相州伝を練り上げたことに留まらず、多くの弟子を持ちました。 特に「正宗十哲」(まさむねじってつ)と呼ばれる10人の門徒達は有名で、正宗の弟子の中でも、取り分け技巧に優れ、名工となった者達です。彼らも正宗に習い、全国に散らばっていきました。
正宗抹殺論とその敗退
1896年(明治29年)、当時正宗が確かに存在したと言える根拠が少なかったために、刀剣見識家として「御剣掛」(ぎょけんがかり:宮内庁の刀剣類を手入れする者)を務めていた「今村長賀」(いまむらながよし)により、「正宗は存在しなかった」とする通称「正宗抹殺論」が唱えられています。  その根拠として今村長賀が掲げた内容は、正宗の偽物でない正真正銘の在銘作がまだ発見されていなかったこと、正宗が名工とされたのは豊臣秀吉の時代(桃山時代)以降であり、それ以前の正宗が名工として記載されている文献などが、まだ発見されていなかったことなどです。  しかし今日では、正宗の確たる在銘作の日本刀が発見されたことや、桃山時代以前の文献で、正宗が名工であったことが記されている物が次々と発見されたことなどから、今村長賀の掲げた根拠は否定されており、この正宗抹殺論は敗退しました。
正宗の特徴
父である行光と同じく、山城伝の作風の名残を持っています。特筆すべき点は、地鉄(じがね)の美しさと、「沸出来」(にえでき)の仕上がり具合です。また、銘を切る作品が非常に少ない刀工で、銘が切られている物には、偽物も多く出回りました。  刀と短刀が見られ、刀は太刀(たち)が「大磨り上げ」(おおすりあげ:使用者の体形や刀の扱い方に合わせて日本刀の刀身を短く仕立て直した際、銘が消える程短くすること)された物です。
正宗:鎌倉時代末期に活躍(作刀年度:1288~1326年頃/正応頃~嘉暦頃)
・人物 相州伝を興した藤三郎行光の子。相州伝を完成させたとされる人物で、「正宗五郎入道」とも称しました。生没年不詳。
・作風 太刀姿は、長寸で「反り」が浅く、「身幅」(みはば)は広く、「平肉」(ひらにく:たっぷりと肉厚感のある厚み)の少ない姿。刃文は沸出来に、「大乱」(おおみだれ)・「互の目乱」(ぐのめみだれ)・「湾乱」(とうらん)・「直刃丁子乱」(すぐはちょうじみだれ)・「馬の歯乱」(うまのはみだれ)などが見られます。  また、「足」、「稲妻」(いなづま)、「金筋」(きんすじ)などの「働き」(はたらき:沸出来や匂出来[においでき]の中に時折現れる様々な動き)が交じるように入り華やかな様子です。地鉄には、「地景」(ちけい:焼き入れの際の物理的変化によって地鉄に現れる筋状の働き)が見られます。  短刀の姿は、身幅が広く「中間反り」の姿。刃文は太刀の刃文と同じ様子で、一層極まった物が見られます。地鉄も先述した太刀と同じく地景が美しく入り、潤いのある様子です。  
・帽子 「沸崩れ」(にえくずれ:沸が激しく不安定)や「火焔」(かえん:炎のような形状)。
・ 銘 ほとんど銘を切らず、2字銘は「正宗」。
・ 作品 「日向正宗」(国宝・名物) 「観世正宗」(国宝・名物)など。(刀剣ワールドより、)

明治に正宗は存在しなったという説もあったとか、『モンスト』のマサムネのアニメではそれを言及してないけど世界感がそんな感じでした、サイバーパンク明治日本という感じやったし。それはそうとして、この時代に古来文化の否定論というのは立ちやすいのも事実、明治になって直ぐに廃仏毀釈とか起こったし、それによって数多くの品が海外に流出したともされていますし、日本刀も多く海外へ流れて行きました。『モンスト』アニメやたらとクオリティが高かったですが、アニメ内登場した反射炉は伊豆にある韮山反射炉に似ていて、それは幕末期の代官江川英龍が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させたものでした、反射炉としては国内で唯一現存するものです、まあ、アニメは話としてはありがちですが。ただ1人のキャラを紹介するのについにここまで来たかと思いましたね。

常識を覆した!?孝明天皇が幕府に取った前代未聞の行動
1831年(天保2年)、「仁孝天皇」(にんこうてんのう)の第4皇子として生まれた孝明天皇。1846年(弘化3年)1月に仁孝天皇が崩御したことにより、同年2月16歳で即位しました。この当時の世界情勢は、アメリカやイギリスといった列強諸国が、アジア進出に乗り出していた時期。例えば、孝明天皇が即位する以前の1840~1842年(天保11~13年)には、日本にとって大国であった清(しん:現・中国)とイギリスの間で「アヘン戦争」が勃発。その結果清が敗北し、イギリスと不平等条約を締結したことから、鎖国体制下で「攘夷論」(じょういろん:外国との通商に反対し、外国を排撃しようとした思想)が主流となっていた日本において、江戸幕府内では開国を主張する気運が少しずつ高まり始めていました。実際に江戸幕府は、1825年(文政8年)に発令された、日本の沿岸に接近してくる外国船を打ち払うことを命じた「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を1842年(天保13年)に廃止。日本に漂着した外国船に薪や食料などを与えて出国してもらう旨を定めた「薪水給与令」(しんすいきゅうよれい)を新たに発布したのです。そんな中、1844~1846年(弘化元~3年)にかけて、フランス船やイギリス船が琉球に来航。孝明天皇が即位した1846年(弘化3年)には、択捉(えとろふ)島にアメリカ捕鯨船が漂着。さらには、アメリカ・東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀へ来航して日本との通商を求めたり、フランス・インドシナ艦隊司令官のセシュが水と燃料を求めて長崎に来航したりと、多くの外国船が日本を訪れるようになっていました。「攘夷派」を貫いていた孝明天皇は、日本を取り巻くこの状況を鑑みて、列強諸国が日本に侵攻してくることを危惧。そして、当時の常識では考えられなかった行動に出たのです。それは幕府に対して、外国船に関する「勅書」を下すこと。その内容を要約すると、「最近、外国船が来航しているという噂を耳にする。幕府の面々は、外国を侮らず恐れず、日本の恥とならないように十分に対処し、朕を安心させるように」という物。江戸時代において幕府のトップである征夷大将軍は、天皇を中心とした朝廷から任命される官職でした。しかし、実質的な権力を握っていたのは幕府側。つまり、天皇が勅書を出して幕府の政策に意見することは、有り得ないことだったのです。戸惑いを隠せない幕府でしたが、京都所司代(きょうとしょしだい:京都に駐在し、京都の警備や、朝廷・公家の監察などにあたった行政機関)の「酒井忠義」(さかいただあき)を通じて、外国船渡来についての状況を孝明天皇に報告。攘夷論者や倒幕派が台頭してきたこともあり、幕府にとっての朝廷は無視できない存在になってきつつあったのです。
攘夷論者でありながら、「倒幕派」ではなく「公武合体派」
ペリー来航で幕府により開国を強行

度重なる列強諸国の日本近海への接近により、アヘン戦争における清の二の舞になることを恐れていた幕府。しかしながら、その外圧にどのように対抗していけば良いのか、考えあぐねていました。そして遂に1853年(嘉永6年)アメリカのペリー提督が、開国と通商を求めて浦賀(うらが:現・神奈川県横須賀市)に来航し、翌年には「日米和親条約」を締結。このときの孝明天皇は幕府に対して、朝廷のあった京都を含む関西地方の警備強化を約束させるだけに留まり、和親条約に関する苦言は特に呈していません。それは、和親条約が日本とアメリカの友好関係を約束するためだけのものであり、通商を許可して完全に開国することを謳っているものではなかったからです。しかし、1858年(安政5年)アメリカの総領事・ハリスから、「日米修好通商条約」の調印を迫られます。その内容は、「日本の関税自主権の放棄」や「アメリカの治外法権の認可」など、日本にとって不利な取り決めばかり。それにもかかわらず、結果としては幕府の大老「井伊直弼」(いいなおすけ)が、ハリスの要求に応じる形で、孝明天皇の勅許を得ずに通商条約に調印することになりました。この調印は井伊直弼が独断で行なったと思われがちですが、実は井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ることを最後まで粘っていた立場。そのため、老中「堀田正睦」(ほったまさよし)を参内(さんだい:宮中に参上すること)させ、直々に条約締結の勅許を求めましたが、孝明天皇は「アメリカの思い通りになってしまっては、天下の一大事。朕の代にこのようなことになるのは、後代までの恥となる」として、アメリカが望むのであれば戦争も辞さない意志を表明し、条約締結による開国を断固拒否したのです。しかしながら、ハリスから申し渡された回答の期日が迫っていたため、老中「松平忠固」(まつだいらただたか)により、強引に条約を締結する方向に推し進めたということが真実だと言われています。
妹「和宮」を徳川家へ降嫁させた理由
勅許なしでの条約締結によって激怒した孝明天皇は、譲位を表明してまで抗議に出ることに。勅許を得ずに通商条約に調印したことの責任追及、その経緯の説明などを幕府に求めようとしました。しかし、すでに幕府に不信感を抱いていた孝明天皇は、本来ならば関白を通じて幕府に話を通すべきところを、徳川家の御三家のひとつで将軍選定の決定権を持っていた水戸(みと)藩に直接勅書を下賜。のちに「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)と呼ばれる事件ですが、これは1858~1859年(安政5~6年)にかけて井伊直弼主導で断行された、戊午の密勅の関係者、及び攘夷論者を大弾圧した「安政の大獄」(あんせいのたいごく)の引き金となりました。安政の大獄を始めとした井伊直弼の恐怖政治により、倒幕を志す「尊王論」(そんのうろん:天皇を第一に敬う思想)と攘夷論が結び付いた「尊王攘夷論者」の反発が激化。そして幕府内だけでなく、外部においても、「開国派」と「尊王攘夷派」で二分することになったのです。この混乱を鎮め、幕府がもう1度諸藩の大名の信頼を回復するためには、幕府と朝廷の結び付きを再び強固なものにする「公武合体」の政策が必要。そう考えた幕府はその証しとして、10年の間に軍備を整備して攘夷を実行し、鎖国体制に戻すことを条件に、孝明天皇の異母妹・和宮(かずのみや)の降嫁(こうか:皇族の娘が、臣下など皇族以外の男性に嫁ぐこと)を申し入れました。6歳のときにすでに「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していた和宮はこれを嫌がり、妹思いの孝明天皇も当然拒否。しかし、孝明天皇は一貫した攘夷論者でありながらも倒幕の意志はなく、むしろ幕府の武力を借りて鎖国することを望んでいたため、1861年(万延2年)に、第14代将軍「徳川家茂」(いえもち)のもとへ和宮を泣く泣く降嫁させたのです。和宮の降嫁をきっかけに、朝廷のほうが幕府よりも優位な立場になり、攘夷が実行されるようにも思われました。しかし、1865年(慶応元年)イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヵ国連合が、数隻の軍艦と共に大阪湾へ来航。「日米通商条約」、及びその他の列強諸国の条約に対する勅許を求めたのです。このときには世界情勢を悟り、また、4ヵ国による京都砲撃の可能性も示唆された孝明天皇は、遂に条約勅許を下しました。そして、1866年(慶応2年)12月25日、孝明天皇は36歳の若さで崩御。その原因は、天然痘の悪化とも、孝明天皇が公武合体派であったことから、倒幕派によって暗殺されたのではないかとも言われています。どちらにしろ、攘夷論者でありながら倒幕の意志は示さず、むしろその存在を認めていた孝明天皇の突然の崩御により、江戸幕府は終焉への道を一気に突き進むことになるのです。
孝明天皇にとっての刀「無銘 伝正宗」の存在
「朝夕に 民やすかれと思ふの身の 心にかかる異国(とつくに)の船」。これは、孝明天皇の御製(ぎょせい:天皇が作った詩歌)。1854年(安政元年)に詠まれた物ですが、同年には日米和親条約が締結され、日本各地で大地震が発生するなど、日本全体が大混乱に陥っていました。孝明天皇が頑なに開国を拒んだのは、単なる西洋嫌いであったからと揶揄されることがありますが、この御製からは孝明天皇がどれほど日本国民のことを思い、胸を痛めていたのかが窺えるのです。そのような不安な状況の中、孝明天皇の心の拠り所になっていたかもしれない物が日本刀。刀と言えば武士が戦で用いる武具、もしくは武家に伝来する家宝のような物というイメージを持たれるかもしれません。しかし、天皇家における刀剣は、世継ぎが生まれると新しい刀剣を作って「守り刀」として贈り、また皇室行事では「神宝」として納められるなど、武家にとっての刀と同じくらい重要な物だったのです。天皇家に伝来している刀剣は数多くありますが、その中で孝明天皇が佩刀していた物が、刀「無銘 伝正宗」。「正宗」の生没年は不明ですが、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍したとされています。正宗は、父「藤三郎行光」(とうさぶろうゆきみつ)と同様に、鎌倉時代中期に相模国(さがみのくに)で興った伝法相州伝の祖「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)に学び、相州伝の作風を完成させました。伝正宗は無銘になっていますが、正宗が鍛えた太刀や刀のほとんどには銘が見当たりません。その理由には、正宗が「日本刀中興の祖」と仰がれるほどの名工であり、彼自身も作刀技術に絶対的な自信を持っていたため、銘など切る必要はないと考えていたとする説や、貴人に直接納入する日本刀に銘を切ることは、失礼にあたるとされていたためという説があります。しかしながら、伝正宗の刃文は、小湾れ(のたれ)乱れに互の目(ぐのめ)乱れが交じる、正宗の作風の特徴をよく示していることから、正宗作であると見極めることが可能。また、相州伝の真髄とも言える焼き入れ法が、強く輝くように冴えた沸(にえ)によって表現されています。
明治天皇の愛刀紹介「明治天皇の刀剣コレクション」
「明治天皇」は、愛刀家としても知られていました。そのコレクションは、古刀、新刀を含めて約300振にも及び、いずれも「業物」(わざもの:名工が制作した切れ味の鋭い刀)揃い。そこで、日本屈指の刀剣収集家でもあった明治天皇が愛した刀剣から、選りすぐりの名刀をご紹介します。
ここでご紹介するのは、「岡田切」(おかだぎり)、「平野藤四郎」(ひらのとうしろう)、「一期一振」(いちごひとふり)、「小竜景光」(こりゅうかげみつ)、「鶴丸国永」(つるまるくになが)、「獅子王」(ししおう)、「太刀:無銘 伝則宗」(たち:むめい でんのりむね)、「小烏丸」(こがらすまる)、「宗瑞正宗」(そうずいまさむね)、刀「会津正宗」(あいずまさむね)、「徳用守家」(とくようもりいえ)、太刀「鶯丸」(うぐいすまる)、太刀「銘 宗近」(めい むねちか)。さらには明治天皇が常用刀として用いていた新刀の祖「堀川国広」(ほりかわくにひろ)の作品、菊紋入りの太刀(和泉守国貞:いずみのかみくにさだ=井上真改作:いのうえしんかいさく)、国宝「太刀」(綾小路定利作:あやのこうじさだとしさく)の15振です。
宗瑞正宗
「宗瑞」とは毛利輝元が、関ヶ原の戦い後に称した「幻庵宗瑞」に由来しています。「宗瑞正宗」(そうずいまさむね)は、毛利輝元が臣従していた豊臣秀吉から与えられたあと、徳川将軍家へ。正宗の特徴である丸みのある茎(なかご:刀身の柄に被われている部分)と動きのある湾れが美しい短刀です。1895年(明治28年)に徳川宗家から明治天皇に献上され、「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん:宮内省から優れた美術家などに送られる栄誉称号)の彫金家「香川勝広」(かがわかつひろ)の技巧を凝らした「花唐草透彫水晶入短刀拵」(はなからくさすかしぼりすいしょういりたんとうこしらえ)が添えられました。
会津正宗
「会津正宗」(あいづまさむね)は、織田信長に臣従していた「蒲生氏郷」(がもううじさと)の領地である「会津」(現在の福島県)の地名にちなんで、こう呼ばれました。8代将軍・徳川吉宗の命で作られた名刀リスト享保名物帳によると、この刀は蒲生家から徳川家康へ献上されたあと、徳川家に受け継がれたのでした。明治維新後に徳川家から皇族「有栖川宮熾仁」親王に渡り、1885年(明治18年)に明治天皇に献上され、現在に至っています。宗瑞正宗と会津正宗は共に、現在は御物として宮内庁で保管されています。(刀剣ワールドより、)

孝明天皇は幕末のキーパンソンで暗○疑惑のある方ですが、、、孝明天皇は無銘 伝正宗を心の拠り所しており、天皇家は世継ぎが生まれるとあたしい刀を守り刀として送り、神宝として納めていた。明治天皇は正宗の部分だけ取り上げてます、明治天皇の替え玉疑惑はここでは置いておきましょう。明治天皇は愛刀家として知られ正宗他多くの刀を保有していて本当は重要な刀は15振りあるのだけどね。
それから、『モンスト』アニメの登場人物ミカドとは”帝”の事で、帝=天皇の事を指しています、今年大河ドラマの主役になった紫式部も『源氏物語絵巻』内で天皇の事を帝(仮)にして架空の人物しています、当時の読者も知っていても敢えて突っ込んでいません、が、今で言う考察は当時からしてました。


[図解]武将・剣豪と日本刀 新装版より、

正宗とは、
正宗(まさむね、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した刀工。五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道とも称された。「相州伝」と称される作風を確立し、多くの弟子を育成した。正宗の人物およびその作った刀についてはさまざまな逸話や伝説が残され、講談などでも取り上げられている。
概要
鎌倉時代末期に「相州伝」と呼ばれる作風を確立した刀工。日本刀剣史では、山城国・大和国・備前国・美濃国・相模国の五ヶ国の刀剣に特徴的な作風をそれぞれ「山城伝」「大和伝」「備前伝」「美濃伝」「相州伝」と称し、これらを総称して「五箇伝」という。正宗はこのうちの「相州伝」の代表的刀工である。
系譜
武士の町であった鎌倉には早い時代から刀鍛冶が存在したと思われるが、その正確な起源は明らかでない。鎌倉幕府第5代執権・北条時頼は、山城(京)から粟田口国綱や備前から備前三郎国宗、一文字助真らを召して鍛刀させたと言われているが、相州鍛冶の実質的な祖とされているのは鎌倉時代末期に活動し、正宗の師とされている新藤五国光である。 正宗の名の初出は、正和5年(1316年)に書かれた日本最古の刀剣鑑定書である『銘尽』(応永30年(1423年の写本)に、相模鍛冶系図に新藤五国光弟子として記載されている。
・相模鍛冶系図 貞國─國弘─助真─國光─國重・國廣・行光・正宗
・鎌倉鍛冶 國宗─國光─進藤太郎・進藤又四郎・大進房ひがきなり・行光藤三郎入道・國光弟子。

すなわち、相模国鍛冶の新藤五国光を継ぐ国重、国広、行光、正宗で、鎌倉鍛冶の国光弟子が正宗にあたる。次に往来物の『桂川地蔵記』(応永23年10月14日条)に天国(刀工)以降、「鎌倉新藤五、彦四郎、五郎入道、九郎次郎・・・」と掲載されている。 正宗の出自については、竹屋理庵本(天正7年(1579年))に行光の子と記載している。また、行光の弟でのちに養子となったとする説もあり、国光の子とする説もある。正宗の弟子とされるものに「正宗十哲」と呼ばれるものがあるが作刀年代が重ならず、後世の作り話であり師弟関係はない。
年代
正宗の作刀には無銘のものが多く、在銘確実なものが少ないことから、明治時代には正宗の実在そのものを疑問とする、いわゆる「正宗抹殺論」(後述)が唱えられている。正宗の師・国光の作品には「鎌倉住人新藤五國光作 永仁元年十月三日」銘の短刀が現存し、国光が永仁元年(1293年)に活動していたことと、鎌倉に住した鍛冶であることが明らかである。一方、正宗の現存健全刀には製作年を明記したものは皆無だが、大坂落城の際に焼け、後に再刃された「嘉暦三年八月 相州住正宗」銘の短刀(名物大坂長銘正宗)が現存する。また、「相模国鎌倉住人正宗 正和三年十一月日」という銘のある短刀(名物江戸長銘正宗)がかつて存在したことが『享保名物帳』などの記録に残っている(嘉暦3年は1328年、正和3年は1314年)。現存作刀の時代観からも、正宗の活動時期を鎌倉時代末期から南北朝時代(13世紀末から14世紀初)と見ることは研究者の間で異論がないが、彼の正確な生没年は不明である。過去帳には正応 五郎入道正宗 戊子年(1288年)正月十一日法名心龍日顕壽八十才の記録がある[5])。また、史実とは見なされていないが、『古刀銘尽大全』には文永元年(1264年)-康永2年(1343年)と記されている。
人物像
正宗の生涯や人物像については後世の講談、芝居などでさまざまに脚色され、半ば伝説化されている。たとえば、八木節の『五郎正宗孝子伝』には、父無し子の正宗が生き別れた父・行光と涙の再会を果たす物語がまことしやかに語られているが、この種の物語はほとんど後世の仮託であると考えられている。
作風
正宗の作品で現存するものは打刀と短刀とがある。打刀は元来太刀として鍛造されていたが、後世に大磨上(おおすりあげ、実戦上の理由から太刀を切り縮めて仕立て直したもの)されたものである。刀の体配は細身のものと、幅広く豪壮で切先のやや伸びたものとがあり、後者は南北朝時代に入っての作刀と見られている。短刀は姿、寸法とも尋常で、無反りか内反りのものが多く、若干の反りのあるものも一部に見られる。ただし、「庖丁正宗」の通称がある3口の短刀は例外的に幅広の異様な造り込みで、刃文や地刃の働きをよりよく表現するためにあえてこの形にしたのではないかと言われている。他に、生ぶ茎(うぶなかご)の小太刀(刃長2尺未満の太刀)で正宗作と極められているものが存在する。正宗の作風の特色として研究者が挙げている要素は、
1.硬軟の鋼を組み合わせ鍛錬し、独自の地鉄を創っていること
2.「沸(にえ)」の美を追求していること
3.地刃に「働き」があること

である。「沸」とは刃紋や地鉄を構成する肉眼で見分けられる大粒の金属粒子であり、「働き」とは刀身の地鉄や刃文に見えるさまざまな模様や変化である。正宗の時代は物情騒然たる世相(二度にわたる元寇の襲来、鎌倉幕府の終焉等々)、元寇の第3寇(第3波襲来)、第4寇(第4波襲来)であった。正宗は蒙古の甲冑(革製鎧)に対し造られ、反り浅く、身幅広く、重ね薄く(断面の厚みが薄いという意味)、鎬高く、鎬幅狭く、平肉なく(刃通りをよくするため)、先身幅細らず、切先延び、ふくら枯れ、という造りがなされている(この平肉のない造り込みはいったん途絶えるが 後世の室町幕府終焉に現れた孫六兼元が復活している)。この時代の太刀は武器として造られ、所有者の丈に合わせられた。武器に銘を切るのは朝廷の延喜式の掟であるから元来は在銘であったという説もあるが、正宗に限らず同時代の相州鍛冶の作品には無銘のものが多く、幕府の用命による作刀には銘を打たなかったとする説もある。刃文は「湾れ(のたれ)」「互の目(ぐのめ)」などと称される乱れ刃で、沸勝(にえかち)であるところが見所の一つ。「湯走り(ゆばしり)」「砂流し(すながし)」などと称する働きが多いのも特色である。短刀は入念作が多く、短刀は「上位献上品」(上位献上品には銘を入れないのが当時の習慣)であり、生ぶ茎(うぶなかご)で無銘の作が多い。習作期の短刀は新藤五国光そのままの小沸出来の細直刃を焼いて小丸帽子になっており、無銘であったならば新藤五国光や粟田口吉光に見間違えてしまうが、相州伝完成期[当時の名刀(古備前物・古伯耆物)は中央に集結しており、正宗は新藤五国光だけではなく、上位から幕臣までの多くのものを実際に手にとって分析したと推定される]の刃長25cm(正宗の短刀の最長作)の中直刃(直刃はごまかしがきかない)の短刀には正宗と推定される作がある。正宗の真髄は「沸の妙味」といわれているが、単なる沸出来は新刀以降でもできる技である。金筋(文字どおり筋状に複数現れている金線=筋金)・稲妻(平地に現れている細長い地景が刄の中へ入り込んだ光の強いS字状にした金筋)、刃染み(炭素量の関係で刃が光らなくなること)がなく透明感のある映りを焼いた「曜変の妙味」(千変万化の働きを「自然」に現す技)は中古刀期における相州伝の最も得意とする領域であり、正宗の特徴でもある。正宗の重要な特色とされる茎(なかご)は、相州伝完成期以降の作においてはよく見られる舟形茎であり、後代の広光・秋広のような舟形茎(詰まった)とは異なり、茎まで鍛え(梃鉄の不純物を取り除くという意味)てあるので、べっとりと凹凸が激しい錆ではなく錆味は良好である。茎尻は、習作期の短刀に切で振袖茎(文字どおり着物の振袖の形からきている)と呼ばれるのが1口と、永青文庫蔵の包丁正宗(国宝)に見られるような栗形と、徳川美術館蔵の包丁正宗(国宝)並びに大阪府・法人蔵の包丁正宗(国宝)の剣形の3種類の茎尻があり、このように正宗の茎尻は剣形だけではないことが知られている。彫物は新藤五国光の三男である大進坊祐慶が彫っており、密教の「梵字」「素剣」「爪」「護摩箸」(不動明王などを本尊として、息災や子孫繁栄などを祈願する護摩を焚くときに使用する杉の白太で作った大角箸)が題材である。なお、「仏像」が彫られたものはない。
在銘の作刀
正宗の作に銘が入っているものはまれで、大部分は無銘または後世の金象嵌銘が入ったものである(本阿弥家など、後世の鑑定家が無銘の刀剣に金象嵌で刀工名を入れることがある)。現存する有銘作は短刀に数口、長物(太刀、刀)で正真作とみなしうるのは、木下正宗(重要美術品)と号する一振りのみである。製作年を明記した現存の健全作は皆無であるが、前述のとおり『享保名物帳』の「焼失之部」には「江戸長銘正宗」「大坂長銘正宗」という年紀入りの短刀が存在したことが記されている。「江戸長銘正宗」の銘は「相模国鎌倉住人正宗 正和三年十一月日」、「大坂長銘正宗」の銘は「嘉暦三年八月 相州住正宗」で、それぞれ1314年、1328年に当たる。後者は、越前康継によって再刃されたものが徳川美術館に現存する。重要文化財指定品では短刀の「不動正宗」が在銘であり、他に「京極正宗」(短刀)、「大黒正宗」(短刀)、徳川美術館所蔵の短刀などが在銘作として知られている。銘は「大黒正宗」が「正宗作」3字銘であるほかは「正宗」2字銘である。太刀では前述の「木下正宗」は「正宗」在銘の作であるが、刀身の上半に火を被ったためか、地刃に精彩を多少欠く部分がある。この太刀の銘は朽ち込んで不鮮明であるため、1935年に重要美術品に認定された際の名称は「正宗ト銘アリ」と慎重を期していたが、重美認定の審査にあたった本間順治は、その後精査した結果、この銘は「否定しがたい」と感じたと述べている。なお、正宗在銘の短刀は焼き直しのものを含め、他にも数例が知られている。
評価
正宗の名は南北朝時代~室町時代の文献にも散見するが、殊に近世には「正宗」は名刀の代名詞となった。享保4年(1719年)、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠(こうちゅう)に命じて作成させた、いわゆる『享保名物帳』には当時の現存名物刀168口、焼失したもの80口の計248口が収載されているが、この中で正宗は59口(現存刀41口、焼失の部18口)を占めている。近世以降、著名な刀工の一人として正宗は一般市民にも知られていた。江戸時代の遺跡から「正宗」と書かれたおもちゃの木刀が出土した[11]ほか、現代でもおもちゃの刀に「名刀正宗」と刻印されるほどである。
「正宗抹殺論」
明治時代には「正宗は存在しなかった。あるいは存在したとしても凡工にすぎなかった」とする、いわゆる「正宗抹殺論」が唱えられたこともあった。明治29年(1896年)、当時刀剣鑑識家として名高く、宮内省の御剣掛を務めていた今村長賀は、「読売新聞」に連載した談話記事の中でおおむね次のように主張した。古来、正宗には在銘正真の作刀を見たことがなく、もし在銘の正宗があれば、それはまがい物である。正宗が名工と言われ出したのは豊臣秀吉の時代以後のことで、それ以前の文献では名工とはされていないし、それ以前の武将が正宗の作刀を差料としていたという話も聞かない。足利義満の時代に、当時の目利きであった宇都宮三河入道に選ばせた名工182工の中にも正宗という名前は入っていない。正宗というものは、秀吉が政略的意図から本阿弥家(代々刀剣研磨と目利きを業とした家)に指示してでっち上げたものであろう。
後世の逸話
織田信長や豊臣秀吉に仕えた安土桃山時代の茶人・津田宗及の『宗及他会記』の天正8年(1580年)3月22日の記録に正宗が登場する。信長の前で脇指14腰、御腰物8腰が振る舞われたとある。茶事に信長を客として招き、当時の名刀を並べたのである。短刀では薬研透(やげんすかし)吉光、無銘藤四郎、アラミ藤四郎などの名のある吉光にまじって、上龍下龍正宗、大トヲシ正宗の名があり、腰物分として正宗(ウチイ五郎入道)が記されている。ウチイは「氏家」のことといい、五郎入道は正宗の俗名である。この刀は「油屋に質に入っている」との記述がある。
子孫
正宗から二十四代目の子孫に当たる人物が、正宗工芸製作所を営み、刀剣・包丁・ハサミ・小刀等を制作している。
価値
三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎は、「金子に糸目をつけないから正宗を手に入れるよう云々」全國の古美術商に号令を懸けたことは語り草となっている。現在、正宗の作は納まる所に納まっており、巷(店や競売等)に出てくるようなものではない。近世には、正宗作のいくつかの名物の代付(値段)は、無代(値が付けられない)とされていた。武士が主君に献上、あるいは恩義の代償として下賜することはあっても、金子での売り買いは不可能だったということであろう。
2003年に『刀 金象嵌銘正宗本阿(花押)本多中務所持(名物中務正宗)』(国宝、徳川将軍家伝来品)を文化庁が買い上げた際の価格は、官報公示によれば166,250,000円であった。(ウィキペディアより、)

↑↑の方に刀の名称を乗せております、それ位素人ですし、今回は本当に概要しか載せてませんが。
今回正宗を取り上げたのはもうお分かりになりますが『モンスト』からマサムネが登場したからでした、なお、マサムネはアホなくらい強い??とか、 マサムネのアニメ見て次はこれだと思ってましたし、しかし、まるで『刀剣乱舞』だろ、ただ、敵キャラのイワクラも魅力的、ちなみに、アニメに登場したイワクラは岩倉具視と思われますね、岩倉具視は公家で代々天皇に仕えているし、岩倉使節団を作り海外に送っており、新政府の樹立に多大な貢献を果たした…と同時に胡散臭いエピソードも多い。ゲーム内に登場して欲しいですがまだな様ですね。

第41回 日本刀の代名詞!正宗についてでした。





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最終更新日  2024年02月11日 23時27分33秒
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