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2024年09月23日
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カテゴリ:風景・旅行など

​9月15日 久留米 久留米宗社日吉神社月讀宮 その3​
です。
田主丸町田主丸 月読神社 その1、うきは市浮羽町 浮羽稲荷神社 その2、久留米宗社 日吉神社 月讀宮 その3を紹介しています、今回で最後になります。
↑↑↑ちなみに、筑後吉井の町並みはこんな感じだったのですね、こちらも観光地化されています、寄れば良かったな。
前回の続きですが、同系統でも争う事もあると書きましたが、例えば、西本願寺と東本願寺、歴史上は伊勢神宮も内宮と外宮が対立していた事も書きました、今でも伊勢神宮と内宮と外宮で互いにあっちとは違うと言ってます、タクシー運転手が休みには伊勢神宮内の色々な場所を回ると言っていましたが、内宮の月讀宮は好きだけど外宮の月夜見宮は怖いと、何か”それ”以外にもあったのか思ってますが。
本当かどうか分かりませんが、古事記では豊受大神は和久産巣日神の子と記されているだけで日本書紀には登場してません、もしかしたら本当は記紀どちらにも登場してないのでしょうか???一説には外宮は出雲系や壱岐系統であったとされており、周辺は何故か出雲系の神社や地名も、伊勢では「蘇民将来」書いてある札を一年中玄関に飾るのは有名ですが、何故だろうか?と疑問に思ってましたし、そういう事だったのかもしれません。
なお、
門前町、宇治と山田
山田と宇治の町は、鎌倉時代後期から庶民の参宮が増えるにつれて、神宮の門前町として発展した。地の利のよいのは山田の方で、その繁栄に憤懣やるかたない内宮・宇治との間に、さまざまな形で対立・紛争がおこった。明徳から慶長までのおよそ200年間に紛争は10数回に及び、一時期は国司北畠家も介入しての争いとなった。宇治と山田の合戦は天文10年(1541)以降、表に立つことはなくなったが、その後も対立感情は長く尾をひいた。(歴史を知ろう より、)

やばい、ガチの対立だった、ただの参拝客をめぐる対立やん、外宮は立地の関係で発展、内宮は所謂 戦国期に朝廷からの援助が滞っていてこのような事態になったとか、この争いに挙句には北畠家まで登場、大規模な戦に発展していた…北畠家は『逃げ若』でも登場しましたね、伊勢国司であることは聞いてましたが…『逃げ若』で登場した北畠顕家は2回目の鎌倉奪還の最重要人物でも、ものすごい美男子で、『逃げ若』でも超絶美男子の割にそのキャラはかなり濃ゆいし、主人公の時行君よりも正直目立っていた、、、ここは出てくるキャラ総じてが全て濃ゆいですが…鎌倉武士サイコー、目玉おやじこと小笠原貞宗さんが一番まともに見えるくらい、、なお、大河ドラマ『太平記』では北場家顕家は女優の後藤久美子さんが演じてました。
西鉄久留米駅ですね、ここからバスで向かいました。
​久留米宗社日吉神社​
最近の手水舎はこうなっている事が多いですね、
御由緒
古事記上巻に「大山咋神亦名山末之大主神此神者坐近淡海国之日枝山亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也」と記され、滋賀県大津市坂本に鎮座の旧官幣大社日吉大社が御本社です。山、水、木の清浄なるを司り給い、古くは『酒の神様、都の鬼門守護、厄除け守護神』としても崇められ、魔除招福の御神威により、万物の生成発展を神助し給う広徳の神として信仰されています。須佐之男命の孫神様に当られます。
古くから久留米の最中心にお祀りされた大神さま
久留米城 御本丸地主神 坂本山王宮

久留米宗社日吉神社は、平安時代のおわり治承年中(1177年~1181年)に久留米の土豪 松田庄左衛門が笹山という場所を開き、その館の守護神として祀られていたと伝えられます。この松田の館後には、高橋某、豊饒永源、高良座主良寛の弟麟圭、小早川秀包、田中吉信、久留米藩主有馬家が居城し、当社は地主神として有馬家二代藩主の正保4年(1647年)まで笹山の地に御鎮座されていました。明治時代に藩主有馬家を称え御創建された篠山神社の文書には、『御本丸地主神坂本山王宮ハ秀包城普請ノ時今ノ御厩ノ地二移サレ、豊氏公御入部後、十間屋敷二移サル、其注連松ハ北御門前井戸脇ニアリ、枝葉等風折有之時ハ坂本宮社人永田氏祓ヲ修シテコレヲ拝受ス(閑暇箒木)』(豊臣秀吉より久留米領地をあたえられた小早川秀包<毛利秀包>が、久留米城修築のときに現在の二ノ丸<秀包時代の本丸>に日吉神社を移され、有馬氏が新城郭普請のときに現在地の日吉町に御遷座される)とあります。このことについて久留米市発行の久留米市史 第二巻には『「いまの市内日吉町の山王社はもと二の丸にあったのを、有馬氏が新城郭普請のときここに移したものである。もともと久留米城地の地主神で、秀包時代の修築のとき二の丸に動かされている」と記している。言い換えれば、現在の篠山神社のある地(有馬時代の本丸)は山王宮が鎮座する自然丘陵であった。』と書かれています。
※地主神とは鎮守社よりも前からそこに鎮座されているもので、久留米城地の古い鎮守社では貞観17年(875年)のものもあり、久留米城地の地主神である当社の創建はそれをさかのぼることも考えられます。
久留米
当地において『久留米』の名称は、筑後守吉志公忠(きしのきんただ)が天慶7年(944年)に注進した「筑後国神名帳」に『玖留見(くるみ)神』の記述が見られ、見と目が相通じることに始まります。次に『久留目』の名称が室町時代(1418年)の「報恩寺坪付帳」に見られましたが、「久留米市史」によればこちらは何を指す名称かは特定出来ないとのことです。次に当社が地主神として御鎮座していた、豊饒永源の居城した天文2年(1532年)「九州治乱記」に初めて『久留米城』と記され『久留米』の名が見られます。(公式HPより、)

久留米の大神さま
有馬藩統治時代には、それまで記述の見あたらなかった村名として、三井郡東久留米村と三潴郡西久留米村の名が見られるようになります。城下町の主要を形成する二村には久留米城に御鎮座されていた山王宮がお祀りされました。それぞれの久留米村の総氏神として、『久留米』の名前を冠した東久留米山王宮、西久留米山王宮と云われました。
久留米宗社
正保四年(1647年)に久留米城二ノ丸より現在地に御遷座された後は、東久留米山王宮また十間屋敷山王宮と呼ばれ、各代にわたり城内安全祈願や藩主の初宮詣でや諸祈願が厳修されてまいりました。第4代久留米藩主からは城下町随一の社として『久留米宗社(くるめそうしゃ)』という称号が奉られました。これは久留米の宗廟の神社であることを意味し、御創建より久留米の土豪の守護神であり市中鎮護の神・藩民守護の社ともいわれ、今日まで久留米を代表する神社として日々祈りつづけています。
久留米大神宮
久留米大神宮は、三重県伊勢市の神宮(伊勢神宮)の正宮である外宮の御分霊が久留米の地に奉斎された神社です。現在は日吉神社の御本殿に奉安されております。
日吉神社の破魔矢とは
お正月に頒布される朱塗りの破魔矢は日吉大神の別の御姿を表したものと伝えられており、破魔招福の縁起や子授けの縁起で多くの参拝者に授与されています。
本殿が西を向いている理由とは
通常、神社の向きは南か東を向いていますが、当社は西を向いています。これは城下町の最東南から広く久留米の街並みを望み市中を守護するためです。
城下町の風門
京都御所や江戸城の四隅に鬼門(東北)・風門(東南)・人門(裏鬼門・西南)・天門(西北)があるように、久留米の城下町にも久留米城を中心とした四隅がありました。城下町の方位は傾斜しており実際の方位とは異なりますが、地図のように鬼門(東北)・人門(裏鬼門・西南)・天門(西北)は、筑後川によって守られており、日吉神社は正保4年に久留米城二の丸より城下町の最東南に御遷座され、風門の真上に御鎮座まします唯一四隅を守護している神社です。
風門とは?
鬼門(東北)・風門(東南)・人門(裏鬼門・西南)・天門(西北)の中で、最上の吉方位「成長・整う」を司る門とされます。東南の方位は、風があらゆる良縁を運んでくるといわれており、現代風に表記すると久留米の最も中心的なパワースポットと言えるでしょう。
風門の龍神
拝殿の欄間には大きな龍が彫刻されています。多くの彫刻は神社をお護りするために装飾されていますが、風門の龍神はその格の高さから社殿内にいらっしゃると云われます。東南は巽(たつみ)の方角といい、たつみは立身と言われることや、長いことにも縁起の良い方角です。宝珠を持つ龍神は天から力をあたえられており、この風門の龍神は城下町をお護りするという願いが込められています。(公式HPより、)

この時期に配布される特別な御朱印を頂きにまいりました、
ここは本殿位置が西向きに向いる珍しい神社、
産霊宮
ご祭神:日吉大神、宇美大神、淡島大神

女性の守り神さま
社名の由来

私たちが生まれた場所にお祀りされている神社の神さまを産土神といい、生涯をお見守りいただく神さまです。この「生み・生かし・育て・伸ばす」のお働きの本源は、天地の初発に最初に出現された神々のうち高皇産霊神(タカミムスビノカミ)・神皇産霊神(カミムスビノカミ)の二柱の神さまによるものです。この二柱の神さまは、延喜式神名帳記載の神社の筆頭に位置する宮中八神殿の第一殿と第二殿にお祀りされていた神さまです。古事記研究の第一の書物として知られる本居宣長の『古事記伝』の中に「さて世間に有りとあることは、此ノ天地を始めて、萬ッの物も、事業も悉に皆、此ノ二柱の産巣日(ムスビ)ノ大御神の産霊に資りて成り出でるものなり」とあります。同じく『玉鉾百首』には「諸の成出る本は神産巣日、高御産巣日の神の産霊(ムスビ)ぞ」と詠じられています。当宮の社名は、この霊徳を遥かに仰ぎまつり、その「むすび」の恩頼を畏み『産霊宮(ウミノミヤ)』と奉称もうしあげます。
日吉大神は古事記上巻に「大山咋命亦名山末之大主神此神者坐近淡海国之日枝山亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也」と記され、川上より流れてきた丹塗りの矢を姫神が持ち帰られたところ、身ごもられ男神をお産みになられたという日吉大神の子授け縁起の神話が伝えられています。また、古くは山王と云われ、産の王、産の緒にも通じることから子どもを守護する神さまとも云われます。
宇美大神は神功皇后が応神天皇を無事産み給うたとの故事により、古来安産の神として信仰され母子の神とされます。
淡島大神は古事記によれば神皇産霊神(カミムスビノカミ)の子とされ、医薬の神として仰がれ、特に婦人の病気平癒・子授け等に霊験あらたかとされています。(公式HPより、)

神産巣日、高御産巣日がお祀りされているのは珍しですね、こちらは主に日吉大神、宇美大神、淡島大神の三神をお祀りしておりますが。
​月讀宮​
常若の月読宮
御由緒

久留米大神宮は、三重県伊勢市の神宮(伊勢神宮)の正宮である外宮の御分霊が久留米の地に奉斎された神社です。月読宮は久留米大神宮の摂社とされます。
当社本源之事
一、当社本源は伊勢国 度会郡 山田原 外宮 豊受皇太神宮にて御座候。
流派之事
一、神道大中臣流 伊勢国 外宮之祠官 橋村肥前大夫 一派にて御座候。(寛文十年久留米藩社方開基2頁)
久留米大神宮には、豊宇気比賣神社・伊勢ノ宮・大神宮・天照大神宮・久留米伊勢宮と多くの社名が見られますが、地域の人々からは「伊勢ノ宮さん」と親しまれていました。いつの頃より久留米大神宮の境内に月読宮がお祀りされ「三夜さん」とよばれるようにもなりました。祭禮も賑やかに行われていたと伝えらており、久留米藩の記録には様々な神事や芸能が行われていた様子が記録されています。(公式HPより、)

外宮の事を書いていたら外宮から勧請したお宮が…当時はどちらか言うと外宮の方が流行っていたのですね、意識はしなかったですが…当時の背景が垣間見えます、ちなみに、外宮と内宮ではおよそ5km離れているからぜんぜん別になりますよね。
​「ハア?」​
今回も絵馬に顔を書きました、前回よりもより”あいつ”だと思いますが、、ぱ〇つアレをするつもりでいましたが、どうも今回も”あいつ”を書きたくなって…今回は入れ替わっている、でも、基本的に誰も今までと行動が変わらない、まあ、小動物だかね、人の様ないらん欲望は持たないと思う。
月讀宮にその”アイツ”を掛けました、
久留米宗社日吉神社で最後でした、が、しかし、今日になって急に寒くなりましたね。
16日の月です、かなり綺麗、、、満月は二日後でした。
今回、実は他に紹介するものがありましたが、3連休は途中で中途半端ではモヤモヤが残るで先に紹介しました、残りは次回紹介しようと思います。
今回の特別な御朱印、
目が切れ長でイケメンのうさぎさん、お一人で200枚用意していた様で通常業務の中で大変でしたでしょうね、ありがとうございました。まあ、今はお客様に来てもらうため色々な事をやられるところも増えましたし。
しばらく額に飾らせていただきます、
↓↓↓は今回 サンドウィッチのパンが無かったのでイングリッシュマフィンで、イングリッシュマフィンと一般的なマフィンは違うそうで、甘いお菓子の方のマフィンは一般的にアメリカマフィンと言うそうです、なお、こちらのマフィンはマックの”ソーセージエッグマフィン”が有名ですが、、今回昼食ですが、一般的に朝食のメニューで食べられる事が多いそうですよ。
9月15日 久留米 久留米宗社日吉神社月讀宮 その3でした。





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最終更新日  2024年09月26日 21時42分30秒
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