カテゴリ:日本文化論
先日旧東欧出身の女性と話していたときのことです。
彼女はこういいました。 「日本人は非常に謙虚で穏やかだから、私はてっきり日本と言う国は宗教心の強い国だと思っていた。そうではないと最近知って、驚いている。どうしてあなたたちはそのような国民性になれるのだ?」 というものでした。(英語だったので、私が適当に意訳してます) 私は言葉につまりました。この質問、まさに今から約100年前、かの有名な新渡戸稲造氏に対して発せられたのと同じだったからです。 岩波文庫の「武士道」の冒頭部分を抜粋します。 --------------- 約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過ごしたが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教無し!どうして道徳教育を授けるのですか!」 と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れ得ない。 ---------------- 彼はこの言葉をきっかけにあの「武士道」を英語で記しました。 さて、同じような質問を受けた私は、迷い迷った挙句に、こんな答えしかできませんでした。 かつてはbushidoというサムライ魂のようなものが日本人の宗教であった。それは権威に従い年長者を敬い、名誉を重んじ、といったものだ。だがサムライeraはもう100年以上前に終わっていて、現代ではもうその魂は大分薄れてしまっている。 モラルも最近は低下し、治安も悪くなりつつある。 英語が拙いというのも一つの理由ですが、たとえ日本語であっても私は満足のいく答えはできなかったでしょう。 新渡戸先生が現代に生きていたら、どう答えるでしょうか? この答えは容易には見つからないでしょうが、「探し続けること」が今の私にはとても大事なことのように感じます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.12.23 00:57:57
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