ふっかつ!
「はやっ!」 と思うけれど、復活しました。 怖くて、なんだか、逃げだしたい気持ちでいっぱいで、聖書という神さまの言葉を開くことができませんでした。 このまま寝たら、どうせ、今の気持ちはすべて忘れてしまうんだろう。と期待して、眠ろうとしたけれど、なかなか眠れなくて。でも、いつのまにか、朝になっていて、こころを確認してみると、全然晴々していなかった。 そうだ!こんな時は、少し部屋をきれいにして、すきな音楽をかけて、おいしいコーンスープを入れて、アップルパイを食べて、おまけにアロエヨーグルトもつけちゃって・・・ そうしたら、自然とこころは元気になるんじゃないかなぁ~。 そうしてみた。 だけど、なにも変わらない。あ~、あたしが、求めているものではなかった。 あたしは、何を求めているんだろう。そう問いかけながら、片方では分かっていた。 聖書通読があたしの今年の目標。それにも縛られて、なんだがここから読み始めなきゃっていうところがあって、だから、読む気にならなかった。 だけど、今読んでいた本があった。「主の御顔を避けて ヨナ書に示された」遠藤嘉信著そうだ、ヨナ書を読もう。そう思った。 ちょうど、読んでいたところが3章だった。聖書を読み始めた・・・「再びヨナに次のようなことばがあった。立って…」声を出して読んだけれど、声にならなかった。久しぶりに自分の手で開いて読んだ、いや、読めた、やっと読めたということが嬉しくて、涙がこぼれた。あぁ、あたしは「かみさまのことば」を求めていたんだなぁと心の底から思った。 そして、本の中にこう書かれていた。「罪に悲しんでいますか。その人は幸いです。」ニネベの人たちが、自分の罪に気づき、罪責感を感じ、喪にふしているシーン。その罪責感から逃れる方法はひとつ 「神さまに赦されること」 あわれみ深い神さまは、ニネベの人々を赦された。 おんなじだ。あたしも、昨日までずっと悲しんでいた。ずっと苦しかった。 「罪に悲しんでいますか。その人は幸いです。」 この聖書の語る真理が、あたしの心のど真ん中に。 かみさま、ごめんなさい・・・。もういやだ。こんな自分もうこりごりだ。たすけて、ゆるして、かみさま。 たくさんの言葉を、へたくそながらも、並べて、ぎこちない祈りをした。 たくさんの思い出を思い出した。あの時も、あたしは神様に赦されてきた。あの時も、あたしが泣き叫んだ時に、神様は右の手を差し伸べてくれた。あの時も、あたしがあなたから離れていて、恐れながらもあなたの元に行ったら、あなたはあたしを抱きしめてくれた。 そうだった。そうやった。忘れたらあかん。神さまのそばにおろう。そうしよう。 詩篇73:21-28 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。 アーメンそうだ、これ、年間聖句にしよう! しあわせや。