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テーマ:介護・看護・喪失(5321)
カテゴリ:テーマ1
慢性期の病院で看護師として働いて約2年、思うことがある。
高齢者の患者さん、体の自由が徐々に利かなくなりナースや助手さんに介助してもらうことが多くなる。できていたことができなくなった歯がゆさといらだち。 看護師として見ていると「70数年自分のため、家族のため働いてきた(家事も含めて)そして、いまはどうだろう。食事をするときカーテンの中で独りもくもくと食べている。総義歯の味気なさ。本来なら家族とともに食べているはずなのに。介助してくれるナースはやさしいけれど(たまには)でも。食べ終わったらまた独りベッドの布団にもぐりこむ。」 たまに面会に来てくれる娘や息子は「どう、大丈夫か」と優しい声をかけてくれるが、それだけ。永ーーい 沈黙。「あんたも忙しいやろ、はよ帰って晩ごはんの支度しいよ」昔は子供のころ、友人のこと、学校のこと話すことは山ほどあった、でも今は。 あの頃、こうなるとは想像もしていなかった。やることは沢山あり、話すことも沢山あった。時間がなかった。時間がなかった。働かなければ生活できなかった。働くことで家族を養っていてそれでよかった。みんなそうだった。「忙しい」この言葉が挨拶だった。 今はどうだろう。自分の人生とはそれでよかったのだけれど、今の自分がこうなるとは知らなかった。死ぬのは怖くない、でもそれまでの時間が、怖い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 20, 2007 10:12:20 PM
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