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カテゴリ:死に方は生き方
久しぶりに東野圭吾作品 「殺人の門」を読んでいる。小学生時代の混沌とした日々。父親の自堕落な生き方に巻き込まれ、次第に生活が出来なくなっていくその過程で友人の「ずる賢さ」に殺意を覚えながら中学生、高校生へと進む。通り一辺倒の人への見方もなんだか実感できる。社会人となるがついそそのかされ詐欺の片棒を担ぐことに加担してしまうのだが、そこには読んでいて「おいおいそれは危ない」と読んでいる私はヒヤヒヤする。それは明らかに詐欺だ、どうしてその世界に入ってしまうのかと憤慨するが、そこが人生の岐路なんだと実感する。友人に勧められてある会社に面接に行く。数分の面接で採用されいきなりセールスをやる。通常ならあり得ないことだ。それがわかっていてもやってしまう愚かさ。そこで留まることができない若さかもしれないが、幼い頃の父親の破滅を知っているのらば、思いとどまるのが私である。そこでなぜ思いとどまらないのか?
また高齢者が詐欺にかかる場面では、高齢者が一方的な被害者ではないことがわかる。高齢者だから、知らなかった、相手の言っていることが理解できなかった、でも印鑑を押した、なんていうのは人生を捨てているとしかいいようのないことだ。ではなぜそうなるのだろうか。実は下地はあるのだった。ある高齢者は嫁との仲が悪くなり独居となる。周囲の人との関係も悪い。もとはプライドの高さだ。60歳代までならいわゆる強気で生きていける。しかしそれは10年15年とは続かない。次第に心が萎えてくる。そこにつけこまれる。「いつまでも若くはない」とはよく言ったものだ。 若い時は会社で苦しみ、老いてからは心で苦しむ。これだけ生きてきたからもう大丈夫というときはない。死ぬまで苦しみは続く。甘い話はない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 2, 2010 12:51:02 PM
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