客観に身を投じるならば・・・1
T.S 様
お書きになられた文章は創作であり、
フィクションであり、この後も続いていくので
この後どのような展開になるのかしら?とは思いますが、
それを理解していても、わたしが、あなたの文章から、
垣間見たものを記し、お伝えすることを、
お許しいただけますでしょうか・・・?
あなたがお書きになったものを拝見し、
私が学生(中学生・大学生)時代に、
自己の支柱とも言えるものが大打撃を受けたときのこと、
その大きな揺れとショックを、なんとしてでも和らげようと、
己という意識のほとんどを突き放して、
自分自身をなんとか守り、その場に踏みとどまろう、
やり過ごそうと(無意識のうちに)必死になったときのこと
をわたしは、思いだしました。
この時わたしは、
目の前の受け入れがたい風景が示していることに、ブラインドを下ろし、
耳から聞こえてきた言葉をそれ以上聞かないようにするために、
耳が聞こえなくなり
涙はこぼれているけれど、いったいどうして泣いているのか、
理解することをこゝろが拒否している ”支離滅裂”の状態となっていました。
幸い、私がそのような状況に陥ったのはたったの3回だけでした。
(3回目は2010年末)
けれども、わたしが少なからず不安に感じた、
あなたの文章のある部分からは、拷問・・・
人目、他人様、社会、、、等というものに、
心を、おろし金ですこしずつすられるような、
わたしの想像を絶するような ”精神的拷問” を感じたのでした。
物心ついた頃から、わたしという人間には、アウトサイダー的な図々しさ、
且つ、狡猾さがたっぷりと染みこんでいましたから、
人目というものが私に攻撃して、
大きな怪我を負わせることが、ほとんどありませんでした。
わたしの裡には、”全くの独断”という、ある判断基準があって、
それは、私のとんでもないような”我侭”が根拠となっているだけの基準であり、
そうでありながら、その基準はどんなものにも、どんなことにも
決して”揺るがない”ものであり、
それによってわたしは、人目というもの、他というもの、社会というものを、
度外視することがなんなくできたのでした。
あなたがお許しくださるならば、
もうすこし、突っ込んで感じたことを書きますと、
”人目”というものが、あなた御自身の中に存在しているのではないか?
っということまで、わたしには見えてきたのでした。
こうなると、、、 自他の境がなくなる、
それは、、、わたしがこれまで、自分の記事の中で、
自他の境が薄くなる、相対関係の崩壊を示す
っと書いてきましたが、それとは全く逆の片端・・・
自分の裡にさえも、他人を感ずる っという意味での自他の境の消滅
を感じたのでした。
そしてそれは、
”自分自身が、自分自身の加害者であり、被害者になる”
というとんでもないことを意味していたのでした。
これが、、、どれほどわたしを落ち着かない、
居ても立ってもいられないような気分にさせたことか・・・
そして、わたしはどうしょうもない気持ちになって、
これを記さずにはいられなくなってしまったのでした。
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