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2006年11月27日
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カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ

晩秋に撮った朝倉遺跡の写真50枚をフリーページで紹介しています。これからは福井県ゆかりの新田義貞、 継体天皇に加えて朝倉遺跡のことも少しづつ日記で紹介していく考えです。また、今公開している朝倉遺跡のムービーも近く一新する予定です。朝倉遺跡は有名なのでご存知の方も多いと思うのですが、またお時間のある時にご覧頂ければ幸いです。

国の特別史跡・朝倉遺跡がある一乗谷は、足羽川の支流・一乗谷川に沿った南北長3km、東西最大幅500mほどの狭小な谷底平野です。福井市街地から南東へ10kmぐらいのところにあります。同遺跡の出入り口、下城戸を過ぎてしばらく車を走らせると、左側東山麓に、「唐門」が建ち土塁に囲まれた館跡が見えてきます。ここが同遺跡の中心部で朝倉氏最後の当主、第5代朝倉義景が住んでいたところです。

朝倉氏は但馬国(兵庫県)第一の名門武士だったようです。もともと日下部氏を本姓とし、但馬国朝来(あさこ)郡から養父(やぶ)郡にかけて勢力を広げていましたが、平安末期に但馬国朝倉庄に移ってから朝倉氏を名乗るようになったといわれています。南北朝時代には、朝倉広景が足利一門の有力武将、斯波氏に従って越前に入国し、新田義貞などと戦い、そののち黒丸(小黒丸)城主に。これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。それから6代約130年間、朝倉氏はこの黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたと伝えられています(9月4日の日記参照)。

朝倉氏が一乗谷で町作りを本格的に始めたのは文明3年(1471)といわれています。その頃、主家の斯波氏に代わり実質的な越前支配者となった朝倉孝景が、本拠地を黒丸城(福井市黒丸)から一乗谷に移して町作りを本格化させたようです。それから100余年間5代にわたって朝倉氏の居城として、また越前の政治、経済、文化の中心として栄えました。その規模は人口が1万人を超し、北国の小京都といわれるほどに繁盛した城下町だったといわれています。しかし天正元年(1573)、天下統一の戦いの中で織田信長に敗れ、戦国大名朝倉氏は滅びました。織田軍によって火がつけられた一乗谷は三日三晩燃え続け、灰燼に帰しました。

しかし幸いなことに、その後の政治の中心が一乗谷から北の庄(足羽川右岸=足羽川北側)に移ったことから、400年もの間、朝倉氏1世紀の歴史がそっくり埋もれて残されていました。一乗谷城下町跡は昭和46年(1971)国の特別史跡に指定され、史跡公園として発掘・整備が今も進められています。平成17年(2005)からは、「平地」の発掘調査に加え、義景館跡の背後に築かれていた「山城」の本格発掘調査にも着手したようです。「山城」の調査は全国的にも珍しいといわれ、学術的な成果が期待されているそうです。






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最終更新日  2006年11月28日 17時48分18秒
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