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2007年01月30日
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カテゴリ:継体天皇あれこれ

継体天皇の出自が日本最古の歴史書「古事記」では近江国(滋賀県)とされていますが、勅撰正史の歴史書「日本書記」では越前国(福井県)とされています。いずれが正しいのかわかりませんが、専門家の大勢が越前出自説を肯定しているようにみえますし、私も継体天皇を学習していくうちに、または坂井市丸岡町の継体天皇ゆかりの地に足を運ぶうちに次第にそう思うようになってきました。

というのは、坂井市丸岡町鳴鹿周辺の山々には、4世紀後半から6世紀前半の頃に越の国(敦賀東の福井、石川、富山、新潟の4県)を治めていたとされる初代から9代目の大首長の前方後円墳が連綿と続いており、丸岡町内にある継体天皇ゆかりの史跡からその大古墳群を眺めていると、越の国のスケールの大きさ、その国を治めた大首長の偉大な支配力が伝わってくるような気がするからです。さらにそれらの大首長墳が、継体天皇の母・振姫の祖先といわれる豪族、三尾氏一族の墓所と考えられていることも、その思いに拍車をかけました。

鳴鹿地区の九頭竜川南岸にある松岡古墳群(永平寺町)の手繰ヶ城山古墳(全長129m)には初代、同川北岸の六呂瀬山古墳群(坂井市丸岡町)の同1号墳(全長140m)には2代目、同3号墳(同90m)には3代目が埋葬されているようです。さらに北側の横山古墳群(坂井市・あわら市)は、6世紀前半の継体天皇の時期に隆盛をみせていることから、継体天皇に二人の妃を出したとされる豪族・三尾氏の墓所と考えられており、そこには8代目と9代目の大首長墳が埋葬されているとみられています。 

ところで、坂井市丸岡町鳴鹿周辺は、越の国の中心として栄えたところといわれています。ここから10分ほど北西へ車を走らせると「高向神社」(継体天皇の母の故郷の日記参照)が見えてきます。同神社境内には、振姫が男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)を養育したところといわれている「高向の宮跡」があります。正確には同神社200m北西後方あたりが同宮跡らしい。振姫は彦主人王に見初められて近江国へ嫁いだのですが、彦主人王は男大迹王が生まれてまもなく亡くなってしまったことから、男大迹王を連れて高向の宮へ帰郷したという。

「高向神社」からさらに車を北へ15分ほど走らせると、田んぼの中に「てんのう堂」(新しい門出日記参照)が見えてきます。ここは男大迹王が、軍隊を引き連れて天皇就任要請にやってきた大伴金村ら大和朝廷重臣と会見したところと伝えられています。男大迹王は家来を整然と従えて堂々と応対したという。また、その話が信用できないので、なかなかこの誘いにのらなかったのですが、その後訪れた使者、河内の馬飼頭「荒籠」(うまかいのおさあらこ)に熱心に説得されて新しい門出を決断、507年、年齢58歳の時に河内(大阪府)の樟葉宮(くすはのみや)で即位したといわれています。

昨年末と年明けに六呂瀬山古墳群に行って来ました。しかし、ここは登山道が整備されていないため、頂上にある六呂瀬山1号墳まで行くことができません。ただ19年度に、同古墳群登山道整備の着手が予定されていることから、1号墳頂上から、福井の穀倉地帯といわれる福井・坂井両平野、その奥に見える日本海を眺めながら、太古のロマンにひたれる日もそう遠くないようです。






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最終更新日  2007年01月30日 11時34分51秒
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