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カテゴリ:朝倉遺跡あれこれ
今春も糸桜が見ごろを迎えた頃、一乗谷朝倉遺跡へ行ってきました。私が訪れた日は天候に恵まれ多くの観光客で賑い、朝倉館跡前の広場などでは、友達連れで食事をしていたり、親子がボール遊びをしている光景が見られました。 一方では、朝倉館跡から湯殿跡庭園に向かう途中など同遺跡のあちこちで、ホーホケキョとウグイスのさえずりが聞かれ、咲き乱れる糸桜の醸し出す幽玄の世界に趣を添えていました。中でも、一乗谷で最多の石仏群が残る盛源寺で聞いたウグイスの鳴き声は、特に印象深いものがありました。動画・朝倉遺跡、糸桜を観賞しながら往時の華やかな繁栄を偲ぶでは、下城戸から入り、朝倉館跡、南陽寺跡、湯殿跡庭園付近、諏訪館跡庭園、御所・安養寺跡、盛源寺などを紹介しています。 天文4年(1535)の春、朝倉館の景色をみてこのような歌を詠んだのは、公家で京の都の多芸な文化人、富小路資直(とみのこうじすけなお)です。往時の一乗谷は京の都にも勝るとも劣らない景観だったようです。糸桜を見ながらその頃に思いを馳せると、華やかなよき時代が甦ってくるような思いも。 「もろ共に月も忘るな糸桜年の緒長き契りと思はゞ」 また、義景館跡から200m東北の山麓高台に立地する南陽寺跡は、朝倉義景が永禄11年(1598)の春、後の室町幕府将軍、足利義昭を招いて歌会を開いたところですが、この歌会で義昭はこのような歌を詠み、「糸桜が長く枝垂れるがごとく、契りが長きにわたると思うなら、一緒に月も忘れないでいてほしい」との思いを義景に伝えたようです。 これに対し義景は「君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこきけふのことの葉」と詠み、義昭に和するように歌で答えたという。 さらに、永禄10~11年(1567~68)にかけての9ヶ月間、足利義昭が滞在した場所として知られる御所跡などにも行ってきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年05月03日 13時04分30秒
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