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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:歴史同好会(城・館・砦)
【見た日:2024年(令和6年)5月2日(木)】
※ 公式HPより そびえ立つ県庁舎の東、県庁前通りにある群馬会館の南側の歩道を東方向、国道50号方面に約200メートルほど行くと、大手町二丁目5の一角に大手新聞社の前橋支局があります。 その直ぐ東側の路地に不思議な空間があり、案内板が目に入ります。 左手には、新聞社のものが、正面には前橋市が設置したものがそれぞれあります。 市の史跡「前橋城車橋門跡」(まえばしじょうくるまばしもんあと)の説明が記されています。 市の案内板には「関東4名城にも数えられていた前橋城の遺構は大変少なく、現在では県庁周辺の本丸土塁とこの門跡しかありません。この門は城の外曲輪(そとくるわ)から城内に至る重要な門で、対の石積み台石は1辺7.7メートル×4.25メートル、高さ1.4メートルあります。前橋藩4代藩主酒井 忠清の代(1637~1681年)に2本の柱の上に横木を一本置いた冠木門(かぶきもん)から櫓の2階を通って門の左右に渡れる渡櫓門(わたりやぐらもん)に改築され、その後、酒井氏の後を継いだ藩主松平氏が川越へ移城した後もこの門は存続していました。現在の門は、昭和39年区画整理事業により間隔がせばめられ西側の台石が8メートル移動されました。」と記されています。 これらの案内によると、車橋門は、慶応3年(1867年)に復興された前橋城渡りやぐら門の跡で、当時、前橋城の外曲輪と内曲輪を結ぶ大手筋にあり、数ある城門の中でも特に重要な門であったとされています。車橋門跡は、現存する前橋城の数少ない遺構のひとつで、前橋城の跡は、この門跡と県庁北の土塁だけとのことです。 また、新聞社の案内板によると、社屋の下にも石垣が保存されているとの説明が記されています。 是非、一度足を運ばれてはいかがでしょうか。前橋市の原点であります前橋城を少しでも感じ取れることと思います。 車橋門(くるまばしもん)は、前橋城の外曲輪(そとくるわ)の加内(金井)曲輪を結ぶ大手筋にあって、数ある城門の中で、特に重要な門の一つでした。 「直泰夜話(なおやすやわ。(注釈1))」によると、初めは2本の柱の上に1本の横木をのせた冠木門(かぶらきもん)でしたが、酒井忠清(さかいただきよ。4代藩主)のとき、通路をはさんだ2つの石積み基台の上に渡櫓(わたりやぐら)をのせた渡櫓門に改められました。今に残る絵図に、その威容がしのばれます。 前橋城は、宇都宮、川越、忍(おし。行田)の城とならんで関東の4平城の一つとされ、特に、幕府にとっては北関東のおさえの城として重要でした。酒井重忠(さかいしげただ)が初代藩主になった時、徳川家康は「汝に関東の華をとらす」と言ったと伝えられています。 前橋城は現在、県庁北側の土塁、児童遊園地(るなぱあく)の空堀とこの車橋門だけが、当時の面影を伝えています。 基台 前幅4.25メートル、奥行7.7メートル、高さ1.4メートル、基台の間隔10.9メートル ※ 前橋城車橋門跡 〈前橋城車橋門跡(栃木県前橋市大手町2-5-3)〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年05月14日 17時17分22秒
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