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カテゴリ:歴史同好会(その他)
【訪問日:2024年(令和6年)5月3日(金・憲法記念日)】 ※ 公式HPより 奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇は国ごとに僧寺と尼寺を造ることを命じました。これが国分寺で、後に僧寺が「国分寺」と言われるようになりました。 当時の群馬県は上野国と呼ばれており、その国分寺は今の高崎市と前橋市の境近くに建てられました。 今からおよそ1,250年前、平城京(奈良県)を中心に全国を約60の国に分けて治める律令政治が行われていました。 当時、災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、仏教の力でこれを治めようと、国ごとに国分寺を造らせるとともに都には東大寺を建立しました。 こうした寺院は政府によって造られましたが、各地方の豪族にも協力が求められました。 上野国の国分寺は、政治の中心であり今の県庁にあたる国府の北西に、僧寺・尼寺がそれぞれ東西に並ぶように建てられました。 歴史書によると旧碓氷郡や旧勢多郡の豪族の協力により、750年頃に主な建物が完成したようです。 全国の国分寺の中でも、最も早い時期に姿が整ったものといえます。 僧寺は東西約220メートル、南北約235メートルの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60.5メートルもある七重塔が建てられていました。 古い記録や調査から1000年頃には築垣や門は壊れてしまいましたが、金堂などは残っていたことが分かります。 しかし、1380年頃には、それも滅びてしまったようです。その跡は道路などで分断されずに現在までよく残っており、大正15年(1926年)に国の史跡に指定されました。 現在では、復元された塔や講堂(旧金堂)の基壇がご覧いただけます。塔の基壇は一辺が19.2メートルの正方形で、上面には17個の礎石が並んでいます。塔の規模としては国内最大級です。 ※ 上野国分寺跡 〈上野国分寺跡(群馬県前橋市元総社町小見、高崎市東国分町・引間町)〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年06月16日 20時55分48秒
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