野田知佑「新・放浪記」
野田知佑「新・放浪記」 野田知佑というカヌーのおっさんがいて、いろいろな本を出している。ハムのCMで焚き火のそばでハムをかじるC・W・ニコルとか倉本總とか、おおざっぱに言えばそこらへんなのだが、この人に強く思うのは、孤立した強さであり、あきらめたものの強さだ。 特技は「魚の手つかみと無銭旅行」であるというそのことが、たとえば子供のころに思い描いたシンプルな憧れを思い出させてくれ、今の自分がどこまで歩いてきたのかと、改めて考えてしまう。 新潮文庫の「日本の川を訪ねる」という本がすばらしいのだが、今回はこちらではない。「新・放浪記」という本があり、これは実に力強い本である。 大学のころにこの本を読み、はげしく影響を受けたぼくが大学を途中で辞めるきっかけになってしまったくらいに、どこか人の心の奥底をつきうごかす力を持っている本である。 大学のボート部に所属していた野田知佑が、やがて日本を旅し、外国を旅するようすを書いているのだが、それは旅というよりは「とまどい」であり、「さすらい」である。まさに、それは放浪であった。 印象に残っているシーンがある。 野田知佑がノルウェーの海岸に沿って旅をしていたとき。 夜中にふと目覚め、さまざまな暗い考え、悲観的な想いに押しつぶされそうで、腕立て伏せやスクワットなど、自分の体を痛めつけでもしないといられないような日々。 自分に誇れるものがないから、自信があふれてきたと思った次の瞬間には、何の根拠もなく自信喪失となる。明暗はいそがしく暗転し、旅をつづけるというより、出発をつづけるために旅をしていた頃のこと。 いつも、ここではないどこか、を探して、歩いていた頃に、中年の男が運転する車にヒッチハイクした。「何の本を読んでいたのかね?」 ときかれ、そのとき読んでいたニコス・カザンザキスの「ゾルバ・ザ・グリーク」という本を示すと、それを朗読してくれという。 何ページか読んでいると、しばらくして男はぽつりと言った。「So,you are wrestling with your philosophy.」(で、君は生き方を模索しているわけだ) 何をやってもいいのだ、人はどんな生き方をしてもいいのだ、と野田知佑はこのとき思ったという。「So,you are wrestling with your philosophy.」 そのまんまに訳せば、「で、君は哲学と格闘しているんだね」となるこの言葉が、それ以来ぼくの中で何度も響いてきた。 どのように生きるにしろ、自分の生き方と格闘するような生き方をしなければ、何かをしたという実感は得られないだろう。 人はどのようにでも生きることはできて、そして何かを残すことはむずかしい。 ただ、自分がぽつんと立ち尽くしてしまうようなときに、 ぼくはたまに、この言葉を思い出す。