2946972 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2018.11.15
XML
カテゴリ:日本史全般
~仙台市博物館特別展~

  

 先日、仙台市博物館へ行った。特別展を観るためだが、あまり気乗りはしなかった。その理由は「絵にならない」からだ。特別展の趣旨から言えば、多分資料の撮影は許されないはず。そしてたとえ許されたとしても、写真映えしないものが大半だ。性格上、絵図や歴史資料が中心。ブログで取り上げても、興味のない人にとっては退屈そのものだと思ったからだ。

         

 だが、私個人としてはとても興味があるテーマには違いない。今年の大河ドラマは『西郷どん』。あれを観ても、自分が知らないことが大部分。しかも戊辰戦争は私が住む東北が、「賊軍」となった戦いなのだ。勝ち負けは時の運だが、果たしてその実態と真実はどうだったのだろう。そして明治維新の避けられない部分が戊辰戦争でもあった。自分としてそれを、どうしても「総括」する必要があったのだ。

  
      <新選組の服=もちろんイミテーションだが>

 幕末期に京都守護職を命じられた会津藩の松平容保。京都の治安を取り締まるため、新選組をその配下に置いた。相次ぐ黒船の来航と、迫られた開国。国論は二分し、尊王攘夷を唱える声が日増しに高まった。一時は賊軍となった長州藩だが、竜馬などの働きにより薩長連合が整うと、気運は一気に討幕へと傾いた。そして鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利すると、幕府の体制は一気に弱まった。

 戊辰戦争の戦跡  

 大政奉還後、最後の将軍慶喜は水戸で蟄居。江戸城の明け渡し後、幕臣の中には戦うことを選んだ者たちもいた。上野の戦いでも敗れた賊軍は、最後の戦いを挑むために東北へと逃げる。一方勢いを得た官軍は、会津藩憎しの思いで進攻する。官軍は最新兵器を備えた精鋭が中心。それに天皇から「錦の御旗」を賜って、意気軒高なものがあったのだ。さて一体どうする、東北の諸藩は。

    3つの旗

 ここに3種類の旗がある。一番左側は官軍の「錦の御旗」。真ん中が仙台藩に下された「錦の御旗」。なぜ賊軍となった仙台藩に天皇から旗が。その疑問は当然だ。仙台藩も最初から賊軍だった訳ではなく、会津藩を討つよう官軍から要請され、一旦はそれに従うため止む無く進攻の準備を進めるのだ。だが幕藩体制にある同じ東北の雄藩として、会津藩への許しを取りなすための動きに出る。

    白石城  

 東北の各藩へも官軍から会津進攻の命令が届いた。この事態にどう対処するか迷った各藩は仙台藩南端の白石城へ集まって対策を練った。会津藩への許しが下りない場合は、会津藩と共に官軍と戦うと言うのがその結論だった。これに越後の長岡藩も同意した。その結果結成されたのが「奥羽越列藩同盟」。上の写真の一番右側が、そのシンボルとなる旗。こうして東北の諸藩は自ら「賊軍」となったのだった。<続く>





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2018.11.15 00:00:22
コメント(6) | コメントを書く


PR


© Rakuten Group, Inc.
X