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マックス爺のエッセイ風日記

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2019.02.20
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カテゴリ:日本史全般
~江戸開府と土木工事~

  

 最初に問題。この城の名を当ててほしい。答えは江戸城の天守閣。だが現代人で観たことのある者は誰もいない。なぜなら焼失して既に現存しないからだ。

      

 焼失の原因は「明暦の大火」。明暦3年(1657年)に生じたいわゆる「振袖火事」のもらい火による。この火事には因縁があり、同じ着物を着た若い娘が立て続けに3人死んだ由。当時死体改め人には死人の着物を自由にする権利があった。だが着物を売った後、それを着た2人の娘が立て続けに死んだ。これは凶事と考え着物を火の中に投じたところ、強風に煽られ後世に残る大火となった由。

    

 他に八百屋の娘お七が恋に狂って火をつけたとの話もある。ともあれ天守閣が焼失した後、再建されないままに幕末を迎えた。そのため現在見られるのは天守台の石垣のみである。

          

 さて時代を安土桃山時代末期に戻す。これは秀吉による「北条攻め」以降、家康が下された領地(赤の部分)。それまでの150万石から250万石へ加増となった。それは良かったのだが、実はこの地には大きな問題があったのだ。<もちろん関が原の戦い以降は、大々的な領地の再配分が実施され、常陸の佐竹氏は羽後(現在の秋田県)へ転封され、他の大名も大幅な国替えが行われた。>

  

 これは平安末期の関東地方だが、家康が江戸へ移った時期も基本的には江戸湾(東京湾)へ流れ込む川にさほど変化はない。利根川や荒川が直接湾に流入し、大雨の際はたびたび大きな被害をもたらしたのである。この治水が第一の課題だった。

             

 家康は早速土木工事を命じ、荒川を西遷させて入間川につなげた。当然元の下流の水量は減る。一方利根川は2度に亘って順次別の川につなげて東遷させ、最終的には現状のように銚子から太平洋へと流した。長期にわたる難工事の結果江戸の水害は激減し、関東平野には美田が広がったのである。

  

 これが開府以前の江戸。ここへ城下を開くためには大幅な土木工事が必要だった。なぜなら後に江戸城となる台地の目前まで、日比谷入江などの海が入り込んでいたためだ。また元々は沼だった千鳥ケ淵を生かし、濠の一部として使った。こうして次第に江戸の縄張り(都市計画)が実行されて行く。なお江戸の町から生じた大量のゴミは、浚渫泥と共に湾埋め立ての材料となった。現代とまるきり同じ思想だ。

         

 そしてこれが土木工事後の概略図。入江はきれいに埋め立てられ、河川と運河は整備され、城下町に相応しい土地が周囲に広がって行った。かって島だった浅草寺も、このころには陸地だったのが分かる。

  

 そしてこれが「総構え」。つまり江戸の町全体の防御体勢だ。江戸城を中心にして二重の濠で囲い、かつ排水を兼ねた。また生活に不可欠な上水(水道)は、小石川上水、神田上水などを順次整備した。これにより江戸は世界一の人口を誇る都市に成長して行く。今年の正月にこれらの一大土木工事をドラマ化した『家康、江戸を建てる』がNHKから放送されたが、とても圧巻で重要な知見を得た。

         

 さて、260年以上続いた幕府に滅亡が迫る。薩摩から第13代将軍家定に嫁いだ天璋院篤姫(写真左)の尽力、第14代将軍家茂に降嫁した皇女和宮(孝明天皇の異母妹=右)の「公武合体」も、体制維持に役立たなかった。だが、無血開城の一助とはなった。その後の歴史は周知の通りだ。

 皇居一般公開の日から2か月半。ようやくこのシリーズが書けた。困難なテーマをなんとか物にするのも、ブロガーの喜びには違いない。<完>

          

<参考>皇居は公開日以外は公開されませんが、常時公開されている箇所があります。その一つが「東御苑」。ここには元本丸、大奥、二の丸 、三の丸などがありました。入り口は大手口(上)など2か所。入場は無料です。美しい広場などがあって楽しめます。ただし月曜日と金曜日はお休みです。





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Last updated  2019.02.20 00:00:26
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