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~籠(この)神社の謎 その2~
<橿原市 檜原神社神籬> 山の辺の道を歩いた時に遭遇したのがこの神社。滅多に見られない3連の鳥居に目を奪われた。ここに「元伊勢」の説明があった。不思議な籬(まがき)の内側で天照大神が一休みされた由。帰宅後ネットで調べると、第10代崇神天皇が「同床共殿」を避けるため、皇女豊鍬入姫命に天照大神の神霊を託された由。つまり大神を祀るため、適当な場所を探しに同皇女が最初に訪れた場所がここと言う訳。 <籠神社本殿=ネットから借用> 次に皇女が訪れたのが丹後の宮津にあった吉佐宮。つまり籠(この)神社の前身だ。皇女はこの後も6度土地を変遷し、24か所の地を訪ねた由。さらに第11代垂仁天皇の第4皇女倭姫命がそれを引き継ぎ、さらに6度変遷して24か所の地を巡った由。そして最終的に落ち着いたのが現在の伊勢神宮(正式名は神宮)と言う訳だ。合計12度変遷し、45か所で適地を探したことになる。(ウィキペディアより) その中に奈良県明日香村の飛鳥坐(あすかにいます)神社の名がある。その小社にも私は偶然訪れている。つい最近、そこに男女のシンボルが祀られていることを知った。一時的にせよ皇祖である天照大神が休んだ場所に、道祖神が立つとは。だがそれは生命とエネルギーの起源として自然とも思える。実は道祖伸は、国つ神である猿田彦が天孫族を道案内した証とされているのだ。 <籠神社奥宮の眞名井神社> 内宮遷宮後食事を司る神が必要との天照大神の神託により、丹波の国から呼ばれたのが豊受大御神。この神を伊勢に祀ったのが外宮だ。約300年もの間、天照大神はずっと腹を空かせていたのだろう。籠神社の奥宮である眞名井神社の主神が豊受大御神。私たちが天橋立を見降ろした山の奥に、そのお宮があることを知っていたが、私は籠神社参拝を優先したのだ。 <琉球王国祝女(のろ)の頂点だった聞得大君(きこえおおぎみ)> 卑弥呼の時代、祭政は別れていた。祭(まつりごと)は巫女である卑弥呼の仕事で、政(まつりごと)は男弟の仕事。大和朝廷発足後はそれを一緒にした。だが崇神天皇は神託によって皇祖の意思を尊重し、皇女に天照大神を祀る宮の適地を探させたのだろう。天皇に代わる神宮の世話役が斎宮。現代においても旧皇族の黒田清子さんがその務めを果たしている。 なお、琉球王朝でも祭政が別れていた。政治は琉球王が、神事は王の親族である聞得大君が司った。古代日本と同様の二重構造だ。日本の古い形が琉球王国に残存していたことに、大多数の沖縄人が気づいていないだろうが。 <籠神社前に立つ2本の石標> これで籠神社の重要性が分かったはず。だからこそ「丹後国一之宮」の名誉を与えられたのだろう。もう一つの疑問は丹波と丹後の関係。名前も位置も近いことから、丹波から分国したのが丹後と考えていたのだが、今回調べたらその通りだった。こんな風にして、歴史の謎がまた一つ解けて行く。 籠神社の宮司は代々海部氏が務めて来た由。同氏は天孫族とする考えもあるが、縁起にある通り海神を祀る海人族のはず。それでもう一つ謎が解ける。それが目の前の海。宮津は天然の良港で、古来日本海を通じた交流があった。九州の宗像氏や出雲族、安曇氏などが想定されよう。そしてそれは北陸出身の第26代継体天皇ともつながるはず。江戸時代には北前船がこの宮津に寄港していた。<この項完 続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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