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マックス爺のエッセイ風日記

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2022.01.15
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カテゴリ:文学
~再び故郷へ戻って~

  

 小学校の教科書では「オッペルの象」と習った宮沢賢治の童話が、本当は「オツベルの象」と濁ることを今回調べて知った。出版社の担当者が字を間違えたのが真相のようだ。しかし音楽教室があり、いきなり「三人の王の行進」や「オーゼの死」をレコードで聞かされた松山の小学校には驚いた。仙台の木造校舎には音楽教室などはなかったはず。傘が人数分なかった我が家では、ネギを刻んだのがおかずだった。

             

 松山で小学校は1年3か月、中学は3年。そして高校へは入学後1か月しか通わなかった。父が急死したのだ。次は静岡で稼ごうと考えた父は税金対策のため全財産を3番目の妻の名義に書き換えていたようだ。大きな夏みかんが実っていた愛媛県庁の前庭。北国生まれの私たちにはとても珍しい風景だった。死の直前の父と行った今治市の「唐子浜」をその35年後に訪ねた。人生はまさに夢幻だ。

   広瀬川と仙台市

 義母は遺産の10分の1しか私たちに渡さなかった。私たちは成人してなかったし、義母(と呼ぶのも嫌だが)は親戚の弁護士と相談の上だったのだろう。そんな事情で仙台では何度か転居を重ねた。兄は勤めながら夜間高校を卒業し、私はようやく公立高校に授業料免除で転校出来た。だが2年の秋からは部活を練習のある運動部から文芸部に変えた。放課後にアルバイトをするためだ。

        青葉城隅櫓   

 男女共学で柔らかい雰囲気の県立高から転校した仙台の高校はすべて別学で、ガサツな校舎と校風。違えば違うものだと感じた。アルバイトは仙台名産の配達。それでも就業前に夕食を摂ることが出来たのは幸い。「手当」は全部兄に渡した。元旦は電報の配達を、夏休みには某文具メーカーの倉庫で重たい段ボールを担いだ。そして夕方からはいつもの配達。クタクタでも頑張れたのは若かったからだろう。

  

 文芸部では詩と小説を書いた。詩は慣れていたが小説は初経験。甘っちょろい青春ものだったが、印刷され文集に載った。書いた詩は「ガリ版」で詩集を自作した。たまたま文化祭に来た姉がそれを読み作れば東京で売ってやると。そして思いがけないことが起きた。ある女子高の演劇部員から詩の創作を頼まれたのだ。その詩を「鶴の恩返し」の劇で朗読するらしい。

                   

 私は文語体の短い詩を書いて彼女に送った。それを60年ぶりに思い出してみた。もう少し長かったはずだが、どこか忘れた部分がある感じ。

 トントンぱたりとんぱたり 
 トントンぱたりとんぱたり
 つうが織りたる織物は 
 黄金の布に銀の布

 ついによひょうが見たものは
 一人機織る鶴ばかり 
 白い姿の鶴ばかり

 あわれよひょうよどこへ行く
 愛しきつうの面影を
 探し求めて雪の中
 今日もさまよう雪の中

    

 演劇は大成功だったようだ。彼女からお礼の手紙が届いて、私は彼女が通う教会に顔を出すことになった。これも奇縁。弟が生まれた直後に別れた生母はクリスチャンだった。聖書の言葉と讃美歌の調べは多感な高校生を虜にした。私は結婚する牧師のために詩を書き、教会のオルガン奏者が作曲した歌を、式の当日に聖歌隊の一員として歌った。自作の詩が歌になった人生初めての経験だった。

                

 彼女から東京の大学に行って良いかと聞かれた。私には彼女の進学を止めるなんの権利もない。きっと交際したいと思ったのだろうが、17歳の私にはまだ重すぎる決断だった。それに私は既に就職が内定していた。その後は勤務しながら合唱団に入って歌を歌い、教会では子供たちの世話をした。若くして出会った宗教は、たとえ一時的にせよ心の汚れを洗い、魂を清らかな世界へと導いてくれた。

   石川善助の詩碑

 教会の勤労青年部の早朝礼拝で行った山の頂上に、その詩碑はあった。詩を読んだ途端に魂を撃ち抜かれた。なんという素朴さ。それでいて暖かくて清純な言葉。詩の題は「化石を拾ふ」。私も小学生時代に化石を拾ったことがあったし、詩も早くから書いていた。そして母の暖かさも家庭の味も知らずに成人した。そんな体験と感情が、この詩を読んだことで一気に蘇ったのだろう。

    化石を拾ふ

  光りの澱む切り通しのなかに
  童子が化石を捜してゐた
  黄赭(きあかつち)の地層のあちらこちらに
  白いうづくまる貝を掘り
  遠い古生代の景色を夢み
  遠い母なる匂ひを嗅いでゐた

  ・・・もう日は翳(かげ)るよ
  空に鴉は散らばるよ
   だのになほも探してゐる
  捜してゐる
  外界(さきのよ)のこころを
  生の始めを
   母を母を

           石川善助   

 石川善助(1901-1932)は仙台市国分町「芭蕉の辻」(かつての奥州街道が通った商店街で、現在は青葉区国分町1丁目)の商家に生まれ仙台商業を卒業後、仲間と共に詩や童話の創作に励み、同人誌「感触」や「北日本詩人」の創刊に関わる。1932年(昭和7年)東京大森駅付近の線路を酔って歩き側溝に転落して溺死。死体の発見は死後10日目だったそうだ。彼の死を悼んだ友人らがその後詩集「亜寒帯」や童話集などを刊行した。

      

 詩碑は仙台市太白区向山4丁目愛宕神社境内(愛宕山頂上:愛宕大橋南たもと付近から階段などで)にある。一生で何度か自分の生き方を決める場面に出会うが、この詩碑との遭遇がその後も私を詩に誘い、日本短文学との出会いにつながったと感じている。<続く>





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Last updated  2022.01.15 07:18:29
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